遠江 朝比奈領 宿屋1
宿屋が連なる小さな町に入り、なんとか数日の滞在を勝ち取った。
どこも満室に近く、宿場通りは活気に満ちている。華やかな呼び込みの声と、武士だけではなく商人も行きかう喧騒が、現状への不安よりも賑やかさのほうを際立たせていた。
ぞわぞわとする嫌な雰囲気は、おそらく誰もが感じている。
だが、この辺りでは五年以上戦はなく、兵も民も、それが永久に続くものと思いたかったのかもしれない。
戦乱の世。ずっと続く平穏などありはしないのに。
宿で荷を解き、早くも西日が差し始めた外を見る。
風を通すために開けられた木襖の向こう側は、鮮やかな茜色に染まっていた。
久々に見る明るい夕陽だ。明日は晴れだろうか。
短い昼が終わり、早々に夜が迫っている。全員が泊まる宿を見つけることが出来てよかった。
「通りの向こうに飯屋があるそうだ!」
隣室から駆けこんできたのは、小袖に袴の軽装になった小四郎殿だ。
ワクワクしているのが手に取るように伝わってきて、つられて立ち上がりそうになったが、静かに部屋に入ってきた小四郎殿の側付きたちの表情を見て、気持ちを落ち着ける。
行くいかないはともかくとして、安全の確保が先だろう。
「飯屋か。行ってみたいが、少し休んでからにしよう。足の指はどうだ?」
「痛くはない」
「駿府まではまだ歩く。しっかり手当てをした方がいい」
「……それもそうだな」
渋々ながらも納得した様子で足を投げ出して座った小四郎殿に、側付きたちがほっとした表情になる。
「お父上に文は書いたのか?」
「書いた。読むか?」
「何と書いたのか教えてくれればよい」
「まだよく状況がわからぬ故、兵が不穏な動きをしている旨だけ記した。あとは父上の方で調べるだろう」
側付きが足を包んだ布を解くと、赤黒くなった親指の爪がのぞく。痛そうだ。
「医者に診てもらった方がいいんじゃないか」
一朗太がそう言うと、小四郎殿もいくらか不安そうな表情になって、己の足先を覗き込んでいる。
「親指がなくなると踏ん張りがきかぬ。それは困る」
なんだかんだと言って、ふたつも年下なのだ。
一朗太は軽くその肩を叩き、「きっと大丈夫だ」と励ましておいた。
「失礼いたします」
そう律儀に声を掛けながら部屋にはいってきたのは、下村だ。
足先の手当てを終え、白湯をすすりながらくつろいでいた二人が顔を上げる。
いつの間にか外はすっかり薄闇で、短い昼が早くも終わろうとしているのがわかる。
下村は静かに襖を閉めて、灯明のひかりの陰になってわかりずらい表情で頭を下げた。
「先様のお屋敷に先触れを申し入れました。快く訪問を受け入れてくださるそうです。ですが少々問題が」
そこで下村は躊躇うように口ごもった。言葉を選んでいるのだろう。
「先様のお屋敷が、何者かに襲撃を受けたとかで……入口の門が破られ、壁もいくらか壊されておりました」
一朗太ははっと息を飲んだ。
まさかこの不穏な兵の動きは、寒月様にかかわることなのだろうか。連動して、そのお側にいる奈津のことが心配になる。
「襲撃? 公家の屋敷を?」
心底びっくりした表情でそう言った小四郎殿の気持ちはわかる。
公家の屋敷を襲うなどと、武士の立場からすればあり得ないのだ。そういう無頼な真似をするのは夜盗に違いない。金目のものがあると思ったのだろうか。
「奈津は」
恐る恐る尋ねると、下村は申し訳なさそうに首を横に振った。
「お会いすることはできませんでした」
ギュウと胸が軋んだ。まさか、また間に合わなかったのか?
すぐにも駆けつけようとして、止められた。
一朗太はただ『公家である寒月様のお屋敷』としか聞いていなかったのだが、どうやら想像していたよりもずっと高貴な御方らしい。
このような刻限に押しかけるのは失礼にあたる。恩義ある御方に非礼な真似をするわけにはいかない。
一朗太はぐっと奥歯を食いしばり、膝の上で拳を握った。
「一姫様のこともございます。先様が慎重になっておられるのは、むしろありがたいことにございます」
「……そうだな」
握りしめた拳は華奢で、いかにも荒事には不向きだ。仮に奈津と再会したとて、事情を正しく把握し、守り切ることはできるのだろうか。
こらえきれないため息がこぼれた。
「どうして父上のように生まれなかったのだろう」
意識しないままに、情けない繰り言がこぼれて、はっとする。
カッと頬が上気して、気恥ずかしさのあまり俯いた。
「ワシも良くそう思う」
ぽつり、と小四郎殿の言葉が返ってきた。
「ワシの父上は優れた武人なのだ。文武の両方に長け、隙がない」
「そ、そうなのか」
あの茄子顔が? ……いや、有能な御方だというのはわかっているが。
「何をやっても父上にはかなわぬ。遥か高みにおられて、たどり着ける気がせぬ」
小四郎殿が天野殿を心底尊敬しているのが伝わってくる。
再び胸が痛んだ。
一朗太の父は、確かに武に長けてはいた。だが味方の武将を暗殺し、幼いその嫡男まで手に掛けようとしたのだ。理由があったのだとしても、到底許されることではない。
小四郎殿は、そんな一朗太の内心の引け目に気づかぬ様子で、明朗に笑った。
「二十も年が違うのだから当たり前だと笑われた」
二十年。実感が持てないほどの遠い先の話だ。
「いずれ生まれるワシらの子に、誇ってもらえる大人になればよいのだそうだ」
父は、一朗太が背負ったものをどんなふうに感じているのだろう。罪よりも子を選んだ父の選択を、責めることはできないが負い目だとは思う。
同じ状況になった時、どういう道を選ぶのが正解か。
小四郎殿はパン、と太ももを両手で叩き、この話は仕舞いとばかりに立ち上がった。
「ではそろそろ参ろう」
その場にいる全員が、がらりと変わった話題についていけなかった。
小四郎殿はそんな一朗太の腕を引いて立たせる。
「飯屋だ飯屋! 腹が減ってはうまい考えもわかぬ」
暗い廊下を強引に歩かされながら、忘れていなかったのかと、ひそかに笑った。
笑えている自分に、いくらかほっとした。
28-4で志郎衛門叔父が寒月様のお屋敷で一朗太と出会っている、とあります
そのあと五日ほどしてから朝比奈殿が戻ってきます
つまり、闇落ち朝比奈殿爆誕よりも一週間ほど前の出来事です
朝比奈殿の正室とその兄弟をとらえ、家中の不穏分子を一掃するべく棚田がブラック労働をしています
曳馬城への後詰めの兵糧を工面している頃です




