北遠~朝比奈領
真っ白な景色を眺める余裕はなく、ただ足元を見て山道を進む。
この場にいる多くの者にとって、生まれた時から慣れ親しんだ季節だが、だからこそ容易く命を奪ってくるのだと知っている。
誰一人油断することなく黙々と足を進め、深い深い雪を踏みしめた。
次第に足元に異変を感じたのは、山を下って低いところに差し掛かった時だ。
季節を逆に進めたように、次第に白色の勢力範囲が黒い色に浸食されていく。
それが明確になったのは、草履に水がしみてきたときで、いつの間にか足元の雪に泥が混じるようになっていた。
たいしたもので、それからはあっという間だった。
木々の幹が黒く姿を現し、ところどころ緑色の葉も見えてくる。
やがて、命を奪う冷たい雪が、ドロドロと解けて大地に馴染み、かわりに瑞々しく葉を立てる松や杉の木が目立つようになってきた。
「足の指がもげそうだ」
小四郎殿がそう言って、べちゃべちゃな足元を見下ろし顔をしかめる。
「そうだな。もう少し下ると川がある。そこで少し休もう」
数日で親しくなった二人は、そろってため息をついた。
近い場所で育ったこと、身分も立場も近いこと。年齢も、聞けばふたつしか違わず、尚武な雰囲気にもかかわらずよく勉学もしていて、話も合った。
……いや、身分については、飛ぶ鳥を落とす勢いの天野家と、すでに没落したといってもいい岡部家とでは比較にならないが。
幸いにもそのあたりのことは、小四郎殿もその側付きたちも何も言わなかった。
気を使ってくれているというよりも、誰でもいつでもそうなる可能性はあると考えているようだ。
川べりの小屋で一時の休憩を取ることになり、手慣れた様子で起こされた火を囲んで、ようやく腰を下ろす。
小四郎殿が草鞋を脱ぐと、真っ赤に染まった足指が見えた。冷たさに気づかなかったが、爪を痛めていたようだ。
「情けない。鍛錬は欠かしたことはないのに」
「そんなところを鍛えることが出来るのか?」
悔しそうにする小四郎殿に向かって、一朗太はひょいと肩をすくめた。
「まず洗った方がよさそうだな。湯を沸かそう」
もともと小柄な一朗太と並ぶと、少し背は低いが肩幅ががっちりしているので、外見上は同世代に見える。
だがふたつ年下で、一朗太にとって守るべき対象のひとりだった。
「父が雪崩に巻き込まれてから、薬草学を学んだのだ。たいした文献もなく、誰かに師事したわけではないのだが」
「薬草学かぁ」
武方面以外にも興味がある小四郎殿が、しかめていた顔をほころばせて笑った。
丸顔の、人がよさそうな顔立ちだ。天野殿にはまったく似ていない。きっと大勢にそう言われてきただろうし、本人もそう思っている。
だがこの子を前にして、天野家の嫡男として不足があると言う者はいないだろう。
いずれ大きくなるとわかる体格も、明朗な気質も。一朗太がもっていない資質だ。性格も頭も良いなど、恵まれすぎている。
「福島家のご嫡男とはどういうお方だった?」
ついそんなことを考えてしまい、自己嫌悪に陥っていると、小四郎殿の口から思いもよらない名が出た。
ふと脳裏に過ったのは青白い顔。心の中まで覗き込んでくるような視線。
「噂では、知恵が遅くうすのろな上に貧弱で、手に負えない癇癪持ちなのだと聞くが」
「……えっ」
誰の事を言っているのだと、思わず真顔で小四郎殿の顔を見返してしまった。
「そんな噂があるのか?」
まだたった五つ六つの童子だぞ。仮にそういう子だったとしても、噂になるほどか?
小四郎殿は、そんな一朗太の反応に驚いたような顔をして、ちらりと周囲を見回した。
野営をするわけではないので、同行している大人たちも思い思いにくつろいでいて、こちらの話を聞いていたのだろう、気まずそうに顔を逸らしている。
「そういうお方だから、御屋形様に見捨てられて、福島家に返されたのだという噂がある」
小四郎殿自身に悪気はないのだ。悪口を言ったつもりもないだろう。
だが一朗太はムッと腹を立てて、首を真横に振った。
「絶対に違うぞ」
確かに身体は弱そうだったが、そういう子供は世の中に大勢いる。
実際に対面して言葉を交わした一朗太にとっては、噂そのものが悪質だとしか思えなかった。
「知恵が遅いだなどと、誰が言うておるのだ」
その時の一朗太は、勝千代殿の素性について何も知らなかった。父が福島家に敵対することになった根本の原因がそこにあるのだと気付くのは、ずっと先のことになる。
その後にすぐ小四郎殿が謝罪をしてきたが、謝られるようなことではない。実際に広まっている噂なのだから。
だがそれを事実であると考え、広めるのはよくないと思う。
「直接お会いする機会もあるだろう。小四郎殿の目で確かめるといい」
「そうだな」
小四郎殿は殊勝な表情でそう言って頷いた。
「……そうか、数えでまだ六つか。どうしてそんな噂がひろがっているのだろう」
昼からは進む速度がゆっくりになり、互いに歩きながら話をする余裕も出てきた。
小四郎殿はどうしても勝千代殿のことが気になるようで、ずっとその話ばかりをしてくる。
特に、直接会った時のことを聞きたがり、詳しい事情を話すわけにはいかない一朗太はところどころで言葉を濁すしかなかった。
だが大きな問題にはならなかった。まさかあの時、状況を支配していたのがたった六つの童子などと、実際にあの場にいた一朗太とて夢だったのではと思うほどなのだから。
 





 
  
 