北遠
この度、冬嵐記の四巻が発売されることになりました!
冬嵐記の裏側で走っている一朗太少年の物語をどうぞ
姉上が死んだ。
その知らせを受けた瞬間、一朗太は一気に両膝から崩れ落ちてしまった。
「若君」
伯父にあたる岡部家家老下村が、さっと周囲の視線をさえぎり、小姓に目配せをして障子を閉めさせる。
「殿と奥方様へは、まだ知らせておりませぬ」
至近距離にある下村の顔に、最近出てきた皺がある。その疲労感漂う表情は、ここ半年の騒動によるものだ。
一朗太は、頼りになる伯父に縋り付きたい思いをぐっとこらえた。
父上があんな状態なのだ。岡部家のすべては、一朗太の両肩にかかっている。
そんなことはずっとわかっていたはずなのに、今ほどそれに孤独を感じたことはない。
どうすればいい。父上に知らせないわけにはいかない。母上にもだ。だが……
ごくり、と喉が鳴る。カラカラに乾いた咥内で、舌が張り付いたように動かない。
「福島家ご嫡男、勝千代様より直々に急使が届いております」
勝千代殿の名を聞いて、はっと我に返った。
一朗太よりも十歳近く年下の童子にもかかわらず、ずっと大人びたしっかりとした物言いをする子供だった。
非力な一朗太よりもなお非力な小さな身体つきで、厳しい冬を乗り越えられるのかと不安を感じるほどの頼りなさだったのに、振り返って思い出すのはその部分ではなく、まっすぐにこちらを見つめる澄んだ目だ。
すぐれた資質は、姿かたちではなく内面だということを、強く一朗太に印象付けた童子だった。
「……勝千代殿が」
思えば、姉と妹を保護したと知らせてくれたのも勝千代殿だった。
すぐに迎えに行きたかったのだが、壊滅状態の城をどうするかで揉めに揉め、申し訳ないと思いながら伸ばし伸ばしになっていた。
差し出された書簡を受け取り、あて名が下村になっていることを確かめて喉を鳴らす。
岡部家と福島家の間にあった確執に配慮し、あえて下村宛にしたのだろう。広げた書簡の出だしは、一朗太の名になっている。
大人顔負けなのは達筆だけではない。大人にもできないような細やかな配慮に、胸の奥がほろりとほぐれた。
「岡部一朗太」ではなく、「一朗太」に宛てたその文は、読み進めるうちにまるで勝千代殿本人が直接語り掛けてくるような、真摯で悲痛な詫び状った。
長くはない文面を読み終えて、震える息を吐く。
幸いにも、妹の奈津は無事とのことだ。今度こそ失わないよう手を尽くすのは、岡部家の嫡男として、いや奈津の兄としての使命だ。人任せにはできない。
「すぐに発つ。父上に話すべきだと思うか?」
呼吸を整えてから発したその声は、震えてはいなかった。
下村はいくらかほっとしたように表情を緩め、「はい」と頷く。
「問題は、奥方様です」
一朗太は顔をしかめた。岡部家の正室は一朗太の母であり、下村にとって実の妹にあたる。互いに身内なので、その苛烈な気質をよくわかっている。
「……これ以上は目をつぶることが出来ない」
岡部家は、福島家に対してまっこうから刀を抜き敵対した。父がそうした理由は、姉たちのことがあったからなのかもしれないが、母は違う。
岡部家が窮地にあるのは福島親子のせいだと信じ込み、今もその考えを変えていない。
姉上の死を知れば、きっと恨みを募らせるだけだろう。
「一姫様は、救出されたものの流行り病で亡くなったということにいたしましょう」
一朗太と同じことを考えたのだろう、下村は眉間の皺を深くしながら頷いた。
きっと本当は、父にも同じ説明をしたほうがいい。だがそうしようとは思わなかった。何故なら、岡部家の当主として、道を誤った結果を知る義務があるからだ。
一朗太にできるのは、父と同じ過ちをせずに済むよう、細心の注意を払って動くことだけだ。
「行かれるのか」
天野殿が石段の上のほうからそう声を掛けてきた。
数日前に本隊を一新し、手際よく周辺地域をまとめてしまった天野殿は、第一印象はひょうたんか茄子のような朴訥とした男だ。
今回のことがなければ、北遠を押さえているのがこの男の手腕によるものだとは信じなかったかもしれない。
「はい。ぶしつけなお願いを聞いてくださり、誠にありがとうございます」
この用を成さなくなった城をどうするか、今川館からの返答は要領を得ない。
母には、当主の交代の申請と、この城をどうするのか聞くために駿府へ行くのだと言っている。
天野殿には、申し訳ないが詳しい事情を話すわけにはいかず、母にしたのと同じ説明をして頭を下げた。岡部家がこの先どうなるか決まるまで、城と両親と残された家臣たちを任せるためだ。
天野殿は相変わらず、何を考えているのかよくわからない表情でこちらを見ていたが、やがて片手を上げて少し背後を振り返った。
「小四郎」
「はい! 父上」
元気よく歩を進めたのは、一朗太よりいくらか年下の子供だった。年下だとはわかるが、体格がいい。
「倅の小四郎だ。駿府まで同行させてはくれぬか」
「……いえ、ですが」
あくまで少人数での強行軍を予定していた一朗太は、断ろうとして口をつぐんだ。
天野殿の意図を察したからだ。
「この子にとっての祖父が腰を痛めたそうでな、見舞いに行かせようと思うておる」
「よろしくお願いします」
にっこりと笑う少年の顔はふっくらと丸く、すでに将来いい武将になりそうな片鱗がある。
そんな、似ていない親子の背後には、二十人ほどの、すでに旅装を整えた武士たちの集団が控えていた。
今まで一朗太が気付かなかったのは、彼らが静かに片膝をついていたからだ。
立ち上がった男たちは皆、物々しい武具を身にまとっているわけでもないのに、ひと目で手練れと分かる雰囲気を漂わせていた。
「……そこまでお世話になるわけには」
「親切は受け取っておきなさい」
やはりそうか。
天野殿は、岡部家の事態を深刻だと察し、一朗太が無事に駿府にたどり着けるように兵を貸すと申し出てくれたのだ。
小四郎殿の同行は口実。あるいは天野家が一朗太を害するつもりはないという証だろう。
思わずまじまじと見上げると、やはりどう見ても曲がった茄子にしか見えない顔立ちが小さく上下するのがわかった。
茄子顔がこれほど頼もしく、安心できるものに見えるとは、想像したこともなかった。
「困ったことがあったら、駿府では天野家の屋敷を頼るとよい」
その言葉に、一朗太は思わず「うっ」と嗚咽をこぼしそうになった。
長くなる予想w
もしかすると、外伝として別の話にするかもしれません
 





 
  
 