井伊直平(41-5)
小さな子供が、名残を惜しんで見送っている。
置いて行かれたことを悲しみ、無事を願う……ありきたりだが情緒に訴える光景だ。
本来であれば胸を打たれるものだろうに、井伊の内にあるのは全く違う感情だった。
そんな、本来子供がするような表情をしている事への違和感。いや真に子供だろうと幾度も思い直すが、うまくいかない。
目に映っているものと、その姿かたちから透けて見えるものと、垣間見てしまった真実の姿と。
すべてが合わさると、困惑と警戒が同時に込み上げてくる。
井伊の中で、福島勝千代という童子の姿が定まらず、いまだ判断に迷っていた。
初対面、真っ先に感じたのは、数年前に対面した御方の面影だ。
道ですれ違っても気づくほどによく似ていて、だがしかし、片手でも首をへし折れそうに幼い子供だった。
その次に来たのが、異常なまでに頭の良い子供だという印象。
数え六つという年齢にそぐわない口調、周囲の誰をも納得させる理路整然とした言葉選びは、知恵付きなどという言葉では到底言い表せるものではない。
身体が弱いというのも、何もないところで躓く不器用さも、天は二物を与えないのだな、という納得とともに見ていた。
息子が強い敵愾心を見せるのも、そういうチグハグさへの警戒だろうと思う。
吹けば飛ぶような小さな童子が持つ、外見とはまったく見合っていない異様な資質は、見ている側を不安にさせるのだ。
だがしかし、福島家の誰もがそのことに気づいていないかのように、片時も目を離そうとはせず、妄信的に従っている。
その真の理由を目の当たりにしたとき、井伊の心の中に沸き起こったのは、息子が示すよりさらに強い危機感だった。
心に過ったその感情は、即座に蓋をして奥にしまい込んだ。
さもなくば、常にこちらを見つめている者たちの警戒対象になっていただろう。
ドサリ、と誰かが転ぶような音がする。
石階段の途中で地面に尻を付いているのは、帰り支度をした久野殿だった。
井伊はある程度察していたという事もあり、驚きはしたが、畏れるところまではいかなかった。
だが信心深いこの男が、勝千代殿の後ろに見ているのは、駿府の御方ではない。
言葉では言い表せない「何か」、人間が本能的に畏怖してしまう「何か」だ。
理解できるだけに、それを隠せない久野殿に同情とともに共感を抱いた。
低く頭を下げているその姿を情けないとも思わない。
人間誰しも、人知の及ばない存在を恐れるものだ。それが、幼い童子の姿を取っていればなおさら怖い。
福島家の者たちはよくあの童子を狐憑き、悪霊付きとみなさないものだ。
駿府の御方に瓜二つだという理由もあるのだろう。
噂によると、福島殿が率先して溺愛しているというが……真実だろうか。
肩に手を置くと、久野殿はびくりと身体を揺らした。
恐る恐る視線を上げ、そこにいるのが井伊だと察して安堵の表情を浮かべる。
それがあまりに露骨だったので、背後の面々からは見えないように身体の位置をずらした。
勝千代殿はともかく、その周囲の者たちの不興をあおるようなことは極力避けた方が良い。
現に今も、じっと見られている。
わずかにでも言動に不審があれば、興津殿からすら目を付けられかねない。
「何も言わず下がられよ。陣に戻り、おとなしく興津殿からの指示を待てばよい」
勝千代殿を害そうとした嫡男への処罰がどうなるかわからないが、今のところ、先鋒としての勤めを果した久野家にお咎めが行くような雰囲気はない。
「……な、何か仰っておられただろうか」
久野殿の視線がせわしなく動き、ちらちらと勝千代殿の背中を見る。
井伊は言葉に詰まったものの、小さくかぶりを振った。
「特には」
「そ、そうか」
久野はほっとしたような……いやそれだけではない、いくらか落胆したような表情を浮かべていた。
何をがっかりしているのだろう?
井伊はいぶかしく思いながら、しばらくその顔をじっと見つめてしまった。
「……いや、何でもない。気になっただけだ」
居心地が悪そうに視線を逸らされ、はっと我に返り、その肩から手を離す。
久野家は……原家もそうだが、どちらも先の戦で今川方についた。
遠江の趨勢を決めるあの戦いで、敵味方に分かれたものの、古くからこの土地に根付いた者同士、長く交流してきた歴史がある。
あの時、どちらにつくかは大きな選択だった。
どちらについても責められるような状況ではなかった。
大きく国を二分した戦で、久野らは勝者側、井伊は敗者側になった。
敗者である井伊家が苦しい立場なのは仕方がないことなのだが、久野らも決して思うような結果にはならなかったのを知っている。
今川家にとって、我ら遠江の国人衆は外様。家臣として重用されるわけでもなく、いつまでたっても内包する不穏分子扱いだった。
数年たって、次第にその思惑が透けて見えるようになってきた。
時間をかけて我らの力を削ぎ、そのうち駿河衆にこの国を任せたいと思っているのだろう。
井伊はそのことに早くから気づいていたが、久野らもぼんやりと察していたらしい。
そのために、今川の血筋である勝千代殿がこの地で領主になるのが面白くなかった。……そのあたりの思惑が、毒を捨てずに持ち続けた理由だろうと思う。
つまりは、勝千代殿へ敵意を抱く理由は理解できるのだ。
だが恐るべきあの知性に触れたからといって、ここまで委縮し、更には縋るような目で見るものだろうか。
まだ数え六つの童子なのだ。あんなに幼い子供に何を期待している?
勝千代殿の小さな背中を、後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら去って行く久野殿に、言葉では表現しがたい不安のようなものを感じずにはいられなかった。
「父上」
嫡男小次郎が小声で声をかけてきた。
この息子は人当たりはいいが、けっこう毒のある気質なのを知る者は少ない。
「少々入れ込み過ぎなように思います」
何が、と聞こうとして、もう一人の息子が見ているものに気づいた。
口も気性も荒い彦次郎が、段差に足を引っかけよろめいた勝千代殿に「あっ」と手を伸ばしかけたのだ。
……助けようとしたのか? その鈍さを嗤うのではなく?
当惑した井伊に、小次郎は更に言葉を続ける。
「単純な奴ですから」
息子は、それがいいとも悪いとも口にはしなかった。
だが、あれだけ敵愾心をむき出しにしてきたのに……
井伊はふと、あることに気づいて背筋を震わせた。
敵意をむき出しにしていたのは、息子だけではない。久野殿も、原殿もそうだ。
そしてその三者ともが、今では真逆の意向を示し始めている。
「父上もお気を付けください」
小次郎に言われてはじめて気づいた。
己もすでに、あの童子を敵に回す可能性を全否定していることに。
断章、これにていったん終了。完結にチェック入れさせてもらいます。
明日から新しく春のお話を開始します。
「冬嵐記」のタイトル上部に飛べるリンクが出るはずなので、よかったらそちらから「春」の方に遊びに来てください。(タイトルまだ決まらず><)
長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
大変感謝しております。
これからもよろしくお願いします。




