逢坂老(37-2)
近づいてきた足音にちらりと目を向け、逢坂はため息を堪える。
もっと静かに歩けんのか。
己の息子ながら、粗ばかりが気になって仕方がない。
生涯現役を掲げ、頻繁に前線に出向いていた頃には、よもやこんな事を気にする日が来るとは思ってもいなかった。
多少なりと目を掛けていた孫が、とんでもないことをしでかした。
孫たちのなかでは、もっとも己に似ていると感じていて、あの利かん気の強さを頼もしいとまで思っていたのに。
言い訳をするつもりはない。
ただ、見誤っていた。
武士にとって最も大切な事。
それは強さではなく、有能さでもなく、主君に対する絶対的な忠誠心だ。
逢坂にとっては当たり前のことでも、愚か者の孫にはそうではなかったらしい。
「……お口にあったようですよ」
その点、凡庸だと思っていたこの息子は違う。
常に視線の片隅に志郎衛門様の姿を収めている。
馬の扱いもギリギリ及第点、気の利いたことも言えない次男だが、志郎衛門さまにはよく仕え、側近として重宝されている。
武士の本分は前に出る事ではない。
主君の為にどれだけ働けるかだ。
逢坂は頷いて、少し遠くにある小さな背中に目を向けた。
「たくさん召し上がられたか?」
「一匹ですね。相変わらず食が細い」
食わねば丈夫にはならない。逢坂はあの手この手で膳に上がる食材を増やそうと試みているが、滋養のあるものは手に入りにくい。
ヤマメが大量にとれたといっても、全軍にいきわたるほどの量ではない。
現に、逢坂の元に届いたのも一匹だ。
川魚なので小ぶりだし、それだけでは多少の腹の足しにしかならない。
「父上?」
己の所に回ってきた一匹を、刺した枝ごと持って立ち上がる。懐から取り出した手ぬぐいに乗せ、ちょっと考えて、自家製の味噌を添える。
「先ほど三浦がおすすめしたようですが、腹がいっぱいで食べられぬと申されておりましたよ」
そんな事はわかっている。耳はまだ遠くないからちゃんと聞こえていた。
だが、辛抱や我慢を周囲に悟らせない方だから、遠慮しているだけかもしれない。
足を踏み出そうとして、視線に気づいた。
谷か。それから、影供の忍び衆だろう。
これだけの大所帯で皆が無秩序に動き回っていたら、警護もかなり大変だと思う。
逢坂は気を悪くするどころか、むしろ納得しながらその懐疑の視線を受け入れた。
相手が誰であろうと、近づく者を警戒する。それは護衛として当たり前のことだ。むしろ、そうでなければ安心できない。
さらに足を進めていると、パチリと木の枝が折れるような音がした。
逢坂がその方向に目をやるのと、当家の牝馬が嘶くのとはほぼ同時だった。
若がヤマメを頬張る様を想像し、眦を下げていた逢坂の顔から表情が消える。
持っていたヤマメを息子に押し付けて、腰に差していた刀を鞘ごとつかんだ。
馬泥棒? 否。不審者? 否。
目指すは、焚火を囲み大声で笑っている若者たち……逢坂家の家人が集まっているところだ。
馬の世話は徹底して教えたはずなのに、浮かれておろそかになっているのが許せなかった。
あの牝馬の嘶きは、不快や怯えを表す声だ。
何者かが勝手に触れようとしたか、羽虫でも飛んで来たか。
逢坂家の馬はよく訓練されているので、よほどのことがない限りあんな嘶きをするはずがない。
青年たちはなおも笑い、馬の方へは目もやらない。
牝馬はますます不快そうに嘶き、足を踏み鳴らしている。
逢坂がその牝馬の轡を握るのと、青年たちが慌てて立ち上がるのとは同時だった。
「父上」
息子がとりなすように声をかける。
こいつのこういうところが、弱気で頼りなく物足りないのだ。
行軍中という状況下で気を緩めるなど、到底許せることではない。
真っ青な顔で直立不動になった若者たちに、教育的指導をしようと拳を握る。
「……若君がこちらをご覧になっておられます」
こいつ。
逢坂はそんな事を言ってくる息子の顔をじろりと睨み、ふんと鼻を鳴らした。
若の名を出せば引くなどと思うな。
拳で殴るのをやめて、目の前にある脛を思いっきり蹴飛ばしてやった。
「なんで!」
涙目になって抗議する息子に、追撃の一撃を食らわせようとしたが、さっと避けられた。
「馬たちが嫌がっている。虫でも潜んでおるのやも知れぬ、下草を刈れ」
「え、ですが」
今の季節は冬。下草など枯れたススキ程度で、ほとんどない。
だが牝馬は何かを不快がり、興奮している。
きっとススキの硬い葉が耳にでも触れたのだろう。
「すぐに刈れ!」
「はっ、はい!」
直立不動だった青年たちが、一斉に動き出した。
逢坂が押さえている馬の乗り手なのだろう、ひとりが落ち着かせようと近寄ってくるが、牝馬はぶるぶると鼻を鳴らして足踏みを止めない。
「どうした」
逢坂がぽんぽんと鼻面を撫でても、やけに興奮しきってしきりにもごもご口を動かしている。
何かがおかしいと、ざっとその馬体を確認してみるが、特に変わったことはなく、しいて言えば鞍があっていないのか、背中との間に隙間があってその部分が少し擦りむけていた。
原因はそれか、と更に顔を寄せて良く見ようとする。
最近近くが見えにくくなり、細部の確認に手間取るようになってきた。
歳など取るものではないなと、内心で悪態をつきながら目を凝らして……
「久次郎」
「はい?」
これは切り傷ではないか? 比較的新しいものに見える。
逢坂が指し示す部位を、息子が訝し気に見る。
その暢気な凡人顔が、一瞬にして険しく顰められた。
「金井!」
低く鋭い叱責に背筋を伸ばしたのは、近寄ってこようとしていた若いのだ。
結論を言えば、金井の怠慢だった。
馬の調子をよく見ておらず、鞍の不具合どころか己が武具を引っかけた事すら気づいていなかった。
逢坂は、配下の者を叱りつけている次男の隣で、冷や汗をかいている若手たちににらみを利かせていた。
だが内心、思いのほかしっかりと育っていた息子に、感心もしたし安心もしていた。
孫のひとりがとんでもない不始末を犯し、逢坂は己のこれまでの生き方が間違っていたのではないかと、ひそかに思い悩んでいたのだ。
「逢坂?」
か細く柔らかな声が耳朶を打ち、ばっと全身で声の方を向く。
「いかがした」
その容姿は少女と見まがう程に可憐で、こちらを見ている丸い目も小さな宝玉のように美しい。
逢坂の小さなあるじは、いつにもましてお可愛らしかった。
身もだえしそうになるのを堪え、その場で片膝をつく。
「は、馬の機嫌が優れませず」
若の視線が、まだ鼻息の荒い馬の方へ向く。
ああ、もう少し離れて頂いた方が良いかもしれない。興奮して暴れるような躾はしていないが、何かがあってからでは遅い。
息子も同じことを考えたようで、背後でぎゅっと手綱を絞る音がした。
「怪我か?」
若は何故か即座に原因を言い当てた。
この方の、こういうところにいつも驚かされる。
「はい、これまで気づきませず」
「ひどいのか?」
「いえ、かすり傷に御座います」
若はひとつ頷かれ、更にとことこと近づいて来られた。
危ないと御諫めした方がいいだろうか。
だが、若が手を伸ばされると同時に、これまではぶすんぶすんと鼻を鳴らしていた牝馬が、不意に甘えるように首を垂れた。
小さな手が鼻頭を撫で、牝馬も頬ずりするようにそれを甘受する。
「手当をしてやるがよい」
「は、はいっ!」
ひっくり返った声でそう返事をしたのは金井だ。
若はもう一度牝馬を撫でてから、逢坂を振り返った。
「わたしも早く馬に乗れるようになりたい」
そのお言葉が耳に届き、一拍おいて頭が理解する。
じんわりと視界が緩み、慌てて瞬きで散らした。
「高天神城に戻りましたら、またお教え致しましょう」
声が涙で震えた。
若はいぶかし気にこちらを見て、お可愛らしく小首を傾げる。
これではいけないと咳払いをしてごまかし、ニコリと笑顔を浮かべた。
「そのためにも、たんとお食べになり大きくなりませんと」
ヤマメはまだ川にいるだろうか。
逢坂は金井への怒りを忘れ、頭の中で、息子らを川へ追いやる算段を始めた。
※注意※
爺フィルターが掛かって可愛く見えているだけで、特に勝千代が美幼女じみた容姿なわけではありません。むしろやせっぽっちの貧相な子供です。
ついでに言うと、逢坂らの声が大きいので、馬が怪我をしたことは周囲に丸聞こえでしたw




