万事(26-4)
甲高い悲鳴が聞こえる。
走り出した万事の目に飛び込んできたのは、屋敷に侵入しようとしている黒づくめの武士たちだった。
その手に握られた刀を見た瞬間、カッと燃え上がったのは怒り。
敵への、万事の手から奪っていく者たちへの、臓腑からこみあげてくるような憎悪だ。
「そこな男、奈津を」
福島の若さまが「寒月様」と呼ぶ白髪の公家が、見たこともない大きな弓を片手にこちらを一瞥して言った。
見ると、目的の少女はその腰にしがみつき、供の者が引き離そうとするのを必死で拒んでいる。
公家などと、そんな雲の上の御方と相対するのは初めての事だ。
だがしかし、このような非常時に、公家も武家もそれ以外もない。
周囲にはまだ敵はきていないが、真っ青になった奈津がずっと悲鳴を上げ続け、痙攣するかのように震えていた。
ああ、可哀そうに。
事情を知るものなら、万事が気に掛ける謂れなどないと吐き捨てそうだが、奈津を見ていると死んでしまった妹弟を思い出す。
己はこの子の父の敵だ。
岡部の大勢を殺した一味だ。
それでも、縋りついてくる小さな手を握り返してやりたくなる。
抱き上げた身体は記憶にあるより軽かった。
女童とはいえ、それなりの年齢なので、腕にずっしり来るはずなのに。
万事が数日目を離している間に、奈津はさらにいっそう、哀れなまでにやつれていた。
己の生き方に疑問を感じたことはない。
物心つく前から山で育ち、外の者は敵だと教えられてきた。
貧しい暮らしで、大人も子供も常に腹を空かせていて、万事の最初の記憶は、妹が飢えて死んでしまった時のものだ。
妹だけではない。毎年冬になると何人も死ぬ。万事の母や弟も、叔父や従兄も。
季節が巡るたびに、歯が抜けるようにぽろぽろと死んでいく。
そんな暮らしの中でも、たとえ少数でも生き残れるようにと、皆で寄り添いあって生きてきた。
命をつなぐために獣の肉を食い、腹が満たされるのであれば草の根や木の皮でも口にした。
年に何度かは、大人たちが持ち帰ってくる「外の食べ物」にありつける日があって、幼いころは、その「御馳走の日」を皆で心待ちにしたものだ。
それが、どこかの村や商隊から強奪したものだと知ったのは、随分後になってから。
血の染みがついた米俵を見ても、負い目に感じたり罪悪感に捕らわれるというようなことはない。
皆、誰かの命の犠牲の上に生きている。
それは万事にとって、山で獣を狩ってその肉を食らうのと、なんら違いはない事だった。
そんな生活からの脱却を図ろうとしたのが、万事の父親世代だ。
各地で大きな戦が頻発していたのも、一つのきっかけだったと聞く。
これまで細々と交流するだけだった山の民たちが、一つの勢力としてまとまるようになったのだ。
だが、どこの国でも忌避された。
賊として恨みを買っていたというのもあるだろう。多くが定住すらせず浮民のような暮らしをしていたというのもあるだろう。
武家が脅威とみなす規模にまで、仲間の数が膨れ上がっていたのも、理由のひとつだと思う。
そして当たり前のように利用され、当たり前のように叩かれた。
悔しいと思うのは、あと少しで望むものに手が届きそうだったからだ。
食う物どころか、雨風をしのぐ場所すらろくにない厳しい暮らし。冬になるたびに減っていく家族。
二度とそういうことのないように、生まれてくる子供たちが安心して暮らせるように、父たちは一世一代の行動にでて……失敗したのだ。
そして、万事はあの童子に出会った。
散々騙されてきた。武家など信じない。
そんな思いをやすやすと打ち抜いたのは、飢えて死にそうな仲間を彷彿とさせる体つきの、小柄な童子だった。
実際に今、生き残ったサンカ衆たちの手元には大金がある。
勝千代という童子が言っていた以上に、調度品は高く売れた。
それを惜しげもなく差し出し、子らを飢えさせるなと説き伏せ、万事だけではない、この話を聞いたすべての男たちを唸らせ、女たちに感謝の涙を流させた。
あれは善意ではない。これ以上被害を広げないための方策だ。
約定を破れば、容赦なくこちらを叩くだろう。
そうとわかっているが、手元にある銭は一族が生き延びるための希望で、なければこの冬を乗り切ることすら難しかった。
騙されないように見張るのだ。父たちを殺した相手を突き止めるのだ。
それははっきり言って言い訳、口実だ。
サンカ衆は、生きていく為に集まってできた集団だ。
すでに死んでしまった者には、飯も住むところも衣服も不要だ。
仲間が死なないよう手を差し伸べてくれたあの童子は恩人で、救われた命は命で返すのが一族の習いだった。
そして万事が託されたのが、この小さな女童だ。
奈津を保護するよう頼まれ、それを了承した。
万事にとっては、やり遂げなくてはならない使命だ。
奈津を抱えて避難していたところ、その当の本人である福島の若君とすれちがった。
万事は何も言わなかった。
あちらも、目線をよこしただけだ。
岡部家の御姫様を抱えたサンカの男を、あの童子は一片も疑う事なく信じたのだ。
込み上げてくるこの感情はなんだろう。
万事は武士ではない。
飢え死にしない為なら、そのあたりの村から奪う事に何の呵責も抱かないサンカだ。
山賊、盗賊、夜盗。
そう呼ばれ蔑まれ続けた。
否定はしない。襲われた方にしてみれば、こちらの事情などどうでもいい事だ。
悪意を向けられることには慣れている。恨まれるのも当然だと思う。
だが、そんな生き方をしてきた万事に、あの童子が示したのは……
信頼には信頼を返したい。
貸し借りなどではなく、素直にそう感じてしまう程、万事の人生はこの時点で大きく変わっていた。
数回書き直しましたが、うまく書けませんでした。時間切れ。そのまま上げます。
断章、残り二話書きます。




