5-1 雪崩
この城は、山の中腹に建てられている。
といっても、背後に反り立った高い山があるわけではない。
日本の山岳特有の、なだらかな稜線がつながる途中を遮るように建ち、中腹の開けた部分に本丸が、そこより下に段々に曲輪が付け足されたような形状をしている。
雪崩はまず本丸の曲輪を半分ほど飲み込んだ。
そしてそのまま下のほうまで流れていき、城全体のおおよそ三分の二ほどが雪の中に埋もれてしまっている。
夜が明けて、被害の状況がはっきりわかってくるにつれ、事の異様さがあきらかになってきた。
そもそもここは、雪崩が頻発するような土地ではないのだ。
前にも述べた通り、背後に高い山があるわけではなく、今年の積雪が特に多かったわけでもない。
雪崩が起こったとしても、精々雪かきした道が塞がれる程度。築城以来一度としてなかったことが、よりにもよって昨夜、城が奇襲を受けている最中に起こったのだ。
あきらかに異常事態だ。
この時代の技術で、雪崩を人工発生させることが可能かどうかはわからない。おそらくはまだ鉄砲は伝わっていない時代だし、火薬にしても微妙なところだ。
いや、火薬単体ならあるのか? 例えば忍びなら……
振り返って見上げた弥太郎が、ニコリと笑みを浮かべる。
……いやいや、もしそんな技術が今のこの時代にあるなら、戦はもっと血なまぐさいものになっていただろう。
「若君? もう少し食べましょうね」
「いや、もうお腹が」
「食べましょうね」
「……はい」
お椀に残っている粥を、渋々口に運ぶ。
食べる速度が遅いうえに、一口が小さいので、湯気が立っていた粥はあっという間に冷めてしまって、あまりおいしくない。
ちなみに玄米と雑穀の茶色いお粥である。
「あ」
遠くから、父が戻ってくるのが見えた。周囲から頭一つ分ほども突き抜けて長身なので、すぐにわかる。
立ち上がって迎えようとお椀を横に置いたが、すぐにまた手に持たされてしまった。
「ちゃんと食べきってください」
はい、すいません。
父に用意されたのは、手のひらサイズの握り飯だ。
やはり玄米と雑穀とを混ぜたものだが、そちらのほうが美味そうに見える。
大きめの皿にドンと盛り付けられた握り飯を、父とその配下の男たちがあっという間に平らげていく。
冗談のようなその減り方に見とれていると、「そなたも残さず食べるのだぞ」と、父にまで釘を刺されてしまった。
見下ろした椀の中には、冷め切ったどろどろの粥。
口に運びなんとか飲み込むが、やはり食は進まない。
「被害の状況はどうでしょう」
粥と白湯とを交互に飲み込み、なんとか完食し終えてから、気になっていたことを尋ねた。
ここは本丸で無事だった唯一の建物。もともとは倉庫として使われていたところだ。
水回りが近く、併設していた厨も無傷だった。
勝千代の耳には、生き残った者たちが懸命に働く物音が聞こえている。
大勢の腹を満たすため、フル稼働で炊き出しをしているのだ。
「雪崩に兵の半分はもっていかれたな。正確な死者の数はまだわからんが、負傷者が多い」
「……そうですか」
現代の日本でも、災害は容赦なく人々を襲った。自然の力に抗うのは不可能だ。
この雪崩が自然現象かどうかは微妙なところだが、いったん起こってしまった雪崩をどうこうできる能力など誰も持ち合わせてはいない。
「岡部殿は」
「まだ見つからん」
衝立の向こうを気にしながら小声で尋ねると、父は表情を険しくしながら言った。
城主である岡部がいないとなると、この場の責任者は自動的に父という事になる。
たとえ、裏切られて殺されそうになっていたのだとしても。
雪崩が起こる前は、本丸を炎上させて落ち延びようとしていたのだとしても。
今この場にいる今川家の武将は父だけで、周囲の者たちは指揮権の継承になんら疑問を持っていない。
唯一の例外が、岡部殿の奥方だった。
彼女はいまだに、父が夜襲のさなかに城を見捨て逃亡しようとしたと思っている。
一朗太少年のほうは真っ青な顔をして何も言わないが、雪崩から逃げる途中に足を折った奥方は、高熱にうなされながらも父を糾弾した。
奥方はこの雪崩も父の仕業と言い立て、岡部殿が不在ならば嫡男の一朗太少年が城主を継承するべきだと主張した。
ある程度の兵力が残っていて、城も無事だったなら、その主張に耳を傾けた者もいたかもしれない。しかし……
いや、万が一にもその目はない。
今川家でも屈指の武将である父と、元服も初陣もまだの子供。サンカ衆の夜襲と雪崩、度重なる災禍にノックアウト寸前の人々にとって、頼りになるのはどう考えても前者だろう。
「二の丸のほうに移るか?」
岡部殿の奥方は、意識が戻るたびに激しく父を罵る。
父はまったく気にしていないが、ここには父の部下たちで怪我を負った者もいる。彼らから報告を受けたのだろう、勝千代の顔色を読むようにそんなことを言う。
「いいえ」
「……だが色々言われるのだろう?」
「奥方は混乱しておいでなのです」
まあ、はっきり言ってしまえば、目を離したくない。
「岡部殿が早く見つかると良いのですが」
城の権限を手に入れ、身の安全を確保する絶好の機会だというのは確かなので、勝手に動かれたくないのだ。
父の部下たちのほとんどが、雪崩の被害には遭わなかった。
父の号令に従うことに慣れきっていて、撤退の合図に即座に身体が動いたらしい。
しかし、奥方と一朗太少年を助けようとした者は少し行動が遅れた。
一人は肩を脱臼し、一人は落ちてきた瓦で額を切った。
二人とも重傷ではないが、今は勝千代の護衛の名目でここで待機している。
がたり、と衝立の向こうで人が動く気配がした。
父の表情は変わらないが、周囲の男たちの表情が煩わし気にしかめられた。
またあの罵声を聞かなければならないのかと思うとうんざりするが、父がいるなら大丈夫だろう。
奥方はひどく父を恐れており、面と向かっては強く文句を言えないのだ。
「母上!」
衝立の向こうから、一朗太少年の声がする。
また騒ごうとした奥方に、父が戻ってきていることを知らせたのだろう。
たちまち衝立の向こうは静かになり、父の配下の者たちの視線がしらっと四方に散る。
勝千代はすっと立ち上がった。
「お勝?」
「奥方に知らせておこうかと」
まだ雪崩が起きてから一日経っていないので、生存の可能性はある。
しかし彼女は城主岡部の奥方なのだ。最悪を考慮して、覚悟を決めておかなければならない。
「そなたが話す必要があるのか?」
父はあまり良い顔をしないが、コミュニケーションは重要である。
面と向かって話をすれば、余計な誤解を招くことも少ないだろう……というのは建前で、勝千代がこまめに話をすることで、よそからの余計な情報をシャットアウトしておきたいのだ。
おそらくだが、奥方は岡部殿の裏切りを知らない。
知らないなら、ずっとそのままでいたほうがいい。




