渋沢(20-4)
ここへ来ると、一姫様を思い出す。
渋沢は表情を変えず中庭に目を向け、そこに目的の相手を見つけて深呼吸した。
一姫様が渋沢にとって特別なのは、色めいた事ではない。
渋沢の状況を笑い飛ばし、むしろからかってきたあの笑顔が、いまだに瞼の裏に焼き付いている。
あのお方がまだ幼い女童だったというのもあるかもしれないが、それを抜きにしても、渋沢にその手の興味を向けない女性は稀だった。
二人の接点は、御屋形様に嫁ぐよりずっと前の幼少期。あんなに幼い方になんという相談をしたのだと、当時は頭を抱えもしたものだが、今となっては遠い日の懐かしい思い出だ。
勝千代様は、大柄な護衛たちに囲まれ、幸松様と手をつないで笑っておられた。
そうやって笑顔でいると、如実に一姫様と重なる。
御屋形様に瓜二つの容姿とはいえ、細かな表情などあの御方を感じさせるところは多い。
初めてそのお姿を目にしたとき、もちろん真っ先に感じたのは御屋形様の血だが、癖のある二木を巧みにあしらう様といい、遠慮なくビシバシと物言うところといい、そこには確かに、一姫様の面影があった。
そう感じているのは、渋沢だけではないだろう。
今お側でお守りしているのは若手が主のようだが、遠巻きに見ている庭師や女中たち、特に年配の者ほど懐かし気な表情をしている。
「あれっ! 申し訳ございませぬ!」
不意にドン……とぶつかられ、生暖かい白湯が袖を濡らした。
渋沢はため息を飲み込み、握られそうになった腕をさっと引いた。
盆を傾け白湯をこぼしたのは、唇の赤い女中。視線を合わせないよう顔をそむけても、やけに身体を寄せてくる。
「まあ! なんという粗相を!」
また別の女中がやってきて、先にいたものを押しのけるように身体をねじ込んでくる。
ここで足を止めていては切りがない。
更に増えることは確実なので、手ぬぐいを持って駆け寄ろうとしている女中たちが寄ってくる前に小者が置いた草履に足を通した。
その一団に近づいていくと、妙な違和感を覚えた。
それが何か察したのは、己が「若君」と声をかけた瞬間だった。
驚かせたつもりはない。足音を潜めもしなかったし、こっそり忍び寄ったわけでもない。現に、二木などはこちらの接近に気づいていた。
ぎょっとしたのは、勝千代様の小さなお身体が池の方向によろめいたからだ。
正確には、幸松様をお守りしようとした側付きの腕がぶつかった。
どう見ても意図的だった。
この寒空の下、病み上がりの童子が池に落ちて取り返しのつかない事になったらどうする気だ。
そもそも勝千代様は一姫様同様丈夫な質には見えず、軽く腕が当たった程度でやすやすと吹き飛ばされるほどに小柄な子供だ。
予期していたのか、土井がすかさず池に落ちるのを防いだが、かなり悪質だと言わざるを得ない。
改めて男たちを見回す。
そのほとんどが、幸松様の「お守り」だった。幸松様はかなり活発な御気性なので、ついていく為に人数がいるのだと聞いてはいた。
だが、御嫡男である勝千代様の側付きの人数とのあまりの差異に、違和感にも増して不快感を覚えた。
幸松様の側付きなら、そのあたりもわきまえて、少し距離を開けるなどの配慮をするべきなのに。
勝千代様をお守りしているのが二木であり、土井であり、殿の側付きとして第一線を張る腕の持ち主なのは確かだが、あまりにも層が薄い。
これは是非とも殿に報告せねば。
本来の目的である謝罪のために刀を外し、両膝を付くと、幸松殿の側付きたちが驚愕の表情をした。
そうだ。いくら年下の幸松殿よりも小柄で頼りなげに見えても、お前ら如きが粗略に扱ってよい御方ではない。
朝比奈軍と今にも接触しそうになっていたあの場で、己を捕えようとした者たちを前にして見せた胆力は、数え六つの童子のものではなかった。
あの状況で、どこの六歳が、実際に今川館に乗り込んでいき、見事殿を取り戻すことができるだろう。
怯えず、怯まず、凛と立つその御姿は、在りし日の一姫様を彷彿とさせるものだった。
謝罪をすると、少し困ったような御顔をなさるのにも、既視感がある。
女中たちの諍いに辟易して逃げ出した渋沢を、よく似た表情で匿ってくださった。
肩に手を置かれ、間近になったその容貌は、確かに御屋形様によく似ておられる。
だがしかし、黒目がちの双眸といい、少し首をかしげる仕草といい、やはりそこかしこに一姫様の面影をお持ちだった。
ツンと鼻の奥が痛くなる。
そうか、もうお亡くなりになられて四年になるのか。
一姫様の事を思い出すたび、その死をどこか偽りのように感じていたのだが、改めてそれが現実なのだと思い知った。
あの小さな姫様がすでにもうこの世にはなく、さらに小さな若君をこの世に残された。
その事実を受け入れた瞬間、彦丸君がお亡くなりになられた時に、殿が大荒れだった理由を理解した。
守れなかった。おひとりで逝かせてしまった。
遅れてやってきた後悔は、これまで以上に渋沢の決意を固めた。
もはやこの世にはない命を取り戻すことはできない。
だがしかし、残された命をお守りすることはできる。
幸いにも勝千代様は主家の御嫡男だ。
渋沢が己とその一族の命運お預けするのに、不足はない。
小柄な背中に従いながら、ちらりと背後の若者たちを見る。
己よりも十も年下だろう彼らは、おそらく駿府詰めの馬廻り衆だ。
殿がああいう御方なので、馬廻りよりも側付きなどの側近がお側にいることが多く、福島御本家での役割がかつてほど重要視されていない。
それを不服に思う一派がいることは気づいていた。
これまで目立ってこなかったのは、彼らの身分の低さと、現在の福島家でそれほど力を有していないからだ。
だが、幸松様の御母上の御実家が馬廻り衆だということもあり、その周囲はすでにがっちりと連中で固められているようだった。
御嫡男に配慮できない馬廻りなど、勝千代様にとっての障りにしかならないのではないか。
そんな事を危ぶんでいた渋沢の視界に、なんという事もない表情の二木の顔が映る。
目が合った。
さりげなく、お互いに視線を逸らせた。
……まあ、この男がいれば、馬廻り衆程度なんとでもしそうだが。
渋沢は、己を見て「きゃあ」と歓声を上げた女中軍団から顔を背け、意地悪く目をきらめかせた二木の顔と同様、二度とそちらに目を向けなかった。
きゃあきゃあアイドルに群がる女中陣を書ききれませんでした><




