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冬嵐記  作者: 槐
断章

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268/308

氏親室(18-8~9)

 遠ざかっていく殿の背中に、思わず手を伸ばしそうになった。

 護衛の者どもが立ちふさがったので見えなくなったが、あの童子の側で床に膝をついたお姿は、すでにしっかりと目に焼き付いている。

 覚えのあるジリジリとした思いが胸を焼いた。

 ああ、また。

 またその子のところへ御行きになるのですね。


「ははうえ」

 龍王丸の不安そうな声に我に返る。

「だいじありませぬ」

 己によく似た容姿の我が子をひしと抱きしめる。

 騒ぎはますます大きくなり、右往左往する男たちの足音で床が揺れる。

 龍王丸は不安そうにきょろきょろとあたりを見回し、おそらくは殿の御姿をさがしているのだろう、腕の中から逃れようともがいた。

「ちちうえ! そこはあぶのうございます!」

 やがて己が目にも見えてきたのは、殿の白い夜着の色と、有象無象の男たちの姿だ。

 膝をつき、殿の周りを取り囲むように、その中心に目を向けている。

 皆が熱心に覗き込んでいるのは、あの童子なのだろう。

 龍王丸が呼んでいるのに、露骨なほどに誰もこちらを見ない。

 殿の方に向かって駆けだそうとした龍王丸を、護衛のひとりが抱き上げる。

 龍王丸はなおも手足をばたつかせていたが、そうまでして我が子が呼んでいるのに、父親である殿ですら、ちらりとも顔をお上げくださらない。


「龍王丸殿、見てはなりませぬ。目が穢れます」

 特に声を張り上げたつもりはない。

 だがしかし、その言葉は妙にはっきりと周囲に響いた。

 先程までは誰もこちらを気にしていなかった。

 目もくれなかった。

 それなのに何故、そんな責めるような目で見るのだ。



 政略結婚で今川家に嫁いだ。

 公家の娘として育ち、よもや武家に嫁ぐとは思ってもいなかった。

 しかも一回り以上も年が離れ、すでに幾人も子がある方の元へ。

 内心の恐れは、殿ご本人と接するうちに薄れたが、殿にはすでに複数の側室がおり、幾人もの御子もいる。

 正室として嫁ぐのだから、と両親に宥められ、気が進まないままに嫁いできた。

 幸いにも殿は正室としてこちらを立ててくれ、姑も親身になって味方に付いてくれた。

 子も生まれ、京にいた頃とは雲泥の差の煌びやかな暮らしにも慣れてきたころ、殿は福島家から新たな側室をお迎えになり、その女子おなごはすぐに身ごもった。

 今さら幾人側室が増えようが、庶子が増えようが、どうということはない。

 表立っては平然とした態度でいつつも、正直なところ、かなり心は乱れていた。


 生まれた子が双子で、側室がすぐに産褥で息を引き取ったと聞いた時、それみたことか、猪武者の子はさすがよ、畜生胎よと笑ってしまった。

 それが悪かったのか。

 いや、内心を面に出すような事は断じてしていない。

 桃源院様おかあさまも仰っていた。

 福島家の勢力を飲み込むための政略なのだと。母を亡くした哀れな子の面倒を見て、なつかせるよう努めよと。

 最初の頃は、言われたとおりに側に置き、我が子同然に扱った。

 だが、殿が彦丸殿に興味を引かれたせいで、それも次第につらくなってきた。

 表だって何かをしたつもりはない。

 母のない子に、心無い言葉を投げかけてしまったこともあるが、彦丸殿の死を願ったりはしなかった。


 すべてがおかしくなったのは、彦丸殿が長患いの末に息を引き取ってからだ。

 館の空気がぎくしゃくとして、周りの者がこちらを伺うように見る。

 最初の頃は気づかなかった。

 しばらくして、妬心から彦丸殿を手に掛けたのではないかと、そんな噂が囁かれているのを知った。

 何を馬鹿な。

 福島家を抑えるための大事な人質なのだ。そのような事をするはずはないではないか。

 だが噂は根強く残り、半年以上たった今でも、そこかしこで囁かれているのを知っている。


 何より、殿の様子がおかしくなったのが衝撃的だった。

 よもや、疑われている?

 そんな事はしていない。するはずもない。

 そう言い訳する間もなく、殿もまた病で御倒れになり、しばらくは側に付き添う事も許されなかった。

 実はいまだにしっかりと話せていない。

 大事な事だ。伝えねばならない本心だ。

 だが、そうする前に、またあの童子が我らの前に現れた。

 いや、本人ではないのはわかっている。だが双子だけにそっくりで、まるで死者の国から舞い戻って来たかのようだった。

 そして危惧した通り、殿の御心は、にっくきあの童子の方へと大きく傾いている。

 龍王丸が呼んでいるのに。

 地響きと地鳴りがこの世の終わりのように響き渡り、こんなにも恐ろし気に震えているのに。

 殿はまた、その子へ手を差し伸べるのですね。


「御台殿」

 おっとりとした優し気な口調に、びくりと肩が震える。

 我が殿の御母上、桃源院様は小柄な美しい方だ。殿と並んでも親子には見えず、まるで年の近い姉弟のよう。

 だが、今川館では殿に次ぐ権勢を握っており、奥でつつがなく日々を過ごしているこの身と違い、実際に政務にまで影響を持っていると聞く。

「胸を張り、龍王丸殿を御支えするのです」

 何を今さら、と思いながら、低い位置にある姑の顔を見下ろす。

 桃源院様はじっと殿を……いや、この位置からは見えないはずのあの童子に目を向けていた。

 どういう意味かと問いかけようとした言葉を飲み込む。

 珍しく取り繕う事のない厳しい横顔だ。

 何をお考えなのかといぶかり、もう一度殿の方に視線を向ける。

「参りますよ」

 促され奥へと避難する前に、一瞬だけ、桃源院様の目が龍王丸の上を掠めていった。

 そして気づいた。


 まさか、比べているのですか。

 あの、彦丸殿に瓜二つな童子と。

 込み上げてきた怒りを、気づかれる前に飲み込んだ。

 比べて、龍王丸が劣っていると感じたのですか?

 じわじわと這い上がってくる怒りが腹を焼き、抑えきれなくなる前に、ぎゅっと頬の内側を噛んで堪えた。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
[良い点] 緊張感ある謀略の話、キャラの掘り下げ、ストーリーがしっかりしている [気になる点] 平安時代の中頃、律令国家の衰退とともに、地方の治安が悪化し、群盗などが発生した。 それに対抗するために…
[一言] 世間知らずのお嬢様を焚き付けるくらい、黒幕的には朝飯前って感じですね。
[良い点] まさか御正室のお話まで読めるとは! 主犯は桃源院様だけで、御正室は関わっていないのですねぇ。 凄く読み応えがあって嬉しいです! [気になる点] 殿の方に向かって駆けだそうとした海王丸を、…
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