氏親室(18-8~9)
遠ざかっていく殿の背中に、思わず手を伸ばしそうになった。
護衛の者どもが立ちふさがったので見えなくなったが、あの童子の側で床に膝をついたお姿は、すでにしっかりと目に焼き付いている。
覚えのあるジリジリとした思いが胸を焼いた。
ああ、また。
またその子のところへ御行きになるのですね。
「ははうえ」
龍王丸の不安そうな声に我に返る。
「だいじありませぬ」
己によく似た容姿の我が子をひしと抱きしめる。
騒ぎはますます大きくなり、右往左往する男たちの足音で床が揺れる。
龍王丸は不安そうにきょろきょろとあたりを見回し、おそらくは殿の御姿をさがしているのだろう、腕の中から逃れようともがいた。
「ちちうえ! そこはあぶのうございます!」
やがて己が目にも見えてきたのは、殿の白い夜着の色と、有象無象の男たちの姿だ。
膝をつき、殿の周りを取り囲むように、その中心に目を向けている。
皆が熱心に覗き込んでいるのは、あの童子なのだろう。
龍王丸が呼んでいるのに、露骨なほどに誰もこちらを見ない。
殿の方に向かって駆けだそうとした龍王丸を、護衛のひとりが抱き上げる。
龍王丸はなおも手足をばたつかせていたが、そうまでして我が子が呼んでいるのに、父親である殿ですら、ちらりとも顔をお上げくださらない。
「龍王丸殿、見てはなりませぬ。目が穢れます」
特に声を張り上げたつもりはない。
だがしかし、その言葉は妙にはっきりと周囲に響いた。
先程までは誰もこちらを気にしていなかった。
目もくれなかった。
それなのに何故、そんな責めるような目で見るのだ。
政略結婚で今川家に嫁いだ。
公家の娘として育ち、よもや武家に嫁ぐとは思ってもいなかった。
しかも一回り以上も年が離れ、すでに幾人も子がある方の元へ。
内心の恐れは、殿ご本人と接するうちに薄れたが、殿にはすでに複数の側室がおり、幾人もの御子もいる。
正室として嫁ぐのだから、と両親に宥められ、気が進まないままに嫁いできた。
幸いにも殿は正室としてこちらを立ててくれ、姑も親身になって味方に付いてくれた。
子も生まれ、京にいた頃とは雲泥の差の煌びやかな暮らしにも慣れてきたころ、殿は福島家から新たな側室をお迎えになり、その女子はすぐに身ごもった。
今さら幾人側室が増えようが、庶子が増えようが、どうということはない。
表立っては平然とした態度でいつつも、正直なところ、かなり心は乱れていた。
生まれた子が双子で、側室がすぐに産褥で息を引き取ったと聞いた時、それみたことか、猪武者の子はさすがよ、畜生胎よと笑ってしまった。
それが悪かったのか。
いや、内心を面に出すような事は断じてしていない。
桃源院様も仰っていた。
福島家の勢力を飲み込むための政略なのだと。母を亡くした哀れな子の面倒を見て、なつかせるよう努めよと。
最初の頃は、言われたとおりに側に置き、我が子同然に扱った。
だが、殿が彦丸殿に興味を引かれたせいで、それも次第につらくなってきた。
表だって何かをしたつもりはない。
母のない子に、心無い言葉を投げかけてしまったこともあるが、彦丸殿の死を願ったりはしなかった。
すべてがおかしくなったのは、彦丸殿が長患いの末に息を引き取ってからだ。
館の空気がぎくしゃくとして、周りの者がこちらを伺うように見る。
最初の頃は気づかなかった。
しばらくして、妬心から彦丸殿を手に掛けたのではないかと、そんな噂が囁かれているのを知った。
何を馬鹿な。
福島家を抑えるための大事な人質なのだ。そのような事をするはずはないではないか。
だが噂は根強く残り、半年以上たった今でも、そこかしこで囁かれているのを知っている。
何より、殿の様子がおかしくなったのが衝撃的だった。
よもや、疑われている?
そんな事はしていない。するはずもない。
そう言い訳する間もなく、殿もまた病で御倒れになり、しばらくは側に付き添う事も許されなかった。
実はいまだにしっかりと話せていない。
大事な事だ。伝えねばならない本心だ。
だが、そうする前に、またあの童子が我らの前に現れた。
いや、本人ではないのはわかっている。だが双子だけにそっくりで、まるで死者の国から舞い戻って来たかのようだった。
そして危惧した通り、殿の御心は、にっくきあの童子の方へと大きく傾いている。
龍王丸が呼んでいるのに。
地響きと地鳴りがこの世の終わりのように響き渡り、こんなにも恐ろし気に震えているのに。
殿はまた、その子へ手を差し伸べるのですね。
「御台殿」
おっとりとした優し気な口調に、びくりと肩が震える。
我が殿の御母上、桃源院様は小柄な美しい方だ。殿と並んでも親子には見えず、まるで年の近い姉弟のよう。
だが、今川館では殿に次ぐ権勢を握っており、奥でつつがなく日々を過ごしているこの身と違い、実際に政務にまで影響を持っていると聞く。
「胸を張り、龍王丸殿を御支えするのです」
何を今さら、と思いながら、低い位置にある姑の顔を見下ろす。
桃源院様はじっと殿を……いや、この位置からは見えないはずのあの童子に目を向けていた。
どういう意味かと問いかけようとした言葉を飲み込む。
珍しく取り繕う事のない厳しい横顔だ。
何をお考えなのかといぶかり、もう一度殿の方に視線を向ける。
「参りますよ」
促され奥へと避難する前に、一瞬だけ、桃源院様の目が龍王丸の上を掠めていった。
そして気づいた。
まさか、比べているのですか。
あの、彦丸殿に瓜二つな童子と。
込み上げてきた怒りを、気づかれる前に飲み込んだ。
比べて、龍王丸が劣っていると感じたのですか?
じわじわと這い上がってくる怒りが腹を焼き、抑えきれなくなる前に、ぎゅっと頬の内側を噛んで堪えた。
 





 
  
 