与平(2-1~2)
「痛いって」
ぺチンと叩かれ、小さく抗議の声を上げる。
前回の潜入で下手を打ち、最終的には組頭の判断で死んだ態をとり離脱する羽目になってしまった。
落ち込む与平の額を無言でぺちぺち叩くのは、幼馴染の楓だ。
こいつは優秀なので、そういう失敗はまずしない。男女の仕事の差というのもあるだろうが、何気に人に気に入られるのが得意なのだ。
「落ち込むより次に生かしなさいよ」
「……わかってる」
きつい口調だが、心配してくれているのはわかっている。
死んだという事にするため、実際に切りつけられ負傷しているのだ。傷は浅いが、痛みはもちろんある。
「……で、頭領のところに童子のお客さんがいるって?」
「そう。福島の若君」
「へえ」
福島の鬼ならば遠目に見たことがある。現在与平の村の者たちはほぼ専属で福島家に雇われていて、与平が潜入した先はその敵側なのだ。
痛む肩をさすりながら、「若君」というその子供について考えた。
きっと腹を空かせたことも、こうやって痛い思いをしたこともない、「幸せな子」なのだろう。今さら他人の境遇をうらやんでも仕方がないと思うが、もっと小さなころは、どうして己らは毎日空腹なのだと考えたことはある。
「本当にお気の毒な方よ」
その言葉にムッとしたのは、常ならぬ楓のしんみりとした口調のせいだ。
いつもなら、同族以外へは冷淡な顔をしてみせるのに。
「福島の若君だろう?」
「お会いになればわかるわよ」
「俺が会える訳ねぇよ」
楓の呆れたような、「わかってないな」と言いたげな視線に腹が立ち、ことさらに顔を顰める。
武家など、質の悪い奴ばかりだ。
子供だからと優しくしてくれても、与平が忍びの子だとわかると即座に態度を変える。まるで汚物でも見るように見下され、唾を吐き蹴飛ばしてくるなど珍しくもない。
この年になると、忍びというものがどういう扱いをうけているのか察することもできるが、もっと幼いころはわかっておらず、無意味に突っかかって行ったものだ。
「会えないって……ほら、いま喜助を膝に乗せようとしている御子。あの方よ」
楓が指し示したのは、丁度与平からは死角になる建屋の向こう側だった。
首を伸ばしてその方向を見て、上等な着物を着た小さな童子が、喜助の腕を引っ張っている様子にぎょっとした。
真っ先に思ったのは、喜助が怪我をするのではないか、という危惧だ。
忍びの子ではあるが、まだ歩き出して間もない乳飲み子なのだ。
しかし、童子の真後ろにひとりの大人が控えている事に気づき、踏み出しかけていた足を止めた。
「……あれ、一番組頭の弥太郎様じゃ」
「そうよ。付きっ切りでお世話なさってる」
普段あまり関わり合いになることのない弥太郎様は、穏やかな面差しに人当たりの良い口調の方なのだが、子供達からは何故か距離を置かれていた。
ほかならぬ与平も、なんとなく得体のしれない恐ろしさを感じ、あまり近づかないようにしている。
「ああ……まだ腕に力がはいらないようね」
楓の言う通り、その童子はひどく体調が悪そうで、顔の色も青白いし、力も出ないようだった。乳飲み子を抱え上げる事すらできず、腕を引かれた当の喜助が困惑の表情で佇んでいる。
結局その場は、喜助自ら若君の隣に座ることで決着がついたが、見間違いでなければ、その童子は少し残念そうな顔をしていた。
ここにいる子供らは、皆忍びの子だ。普通の子供のように見えて、そうではない。命のやり取りを経験していない子など、それこそ乳飲み子の喜助ぐらいなものだろう。
そんな子供たちだからこそ、弥太郎様には警戒して近づかず、逆に、福島の若君には興味津々に距離を詰めた。
与平が観察している間にも、一人二人どころではない数の子供が、我先にと若君のひざ元に侍る。
忍び働きについて口を滑らせる者はいないが、農地の手入れだったり、冬の家仕事だったり、水汲みや薪割の話などを口々に喋る。
そのたびにいちいち褒めてくれ、運が良ければ頭を撫でてくれる。
その際に向けられるふわりとした笑顔に、誰もかれも魅了されてしまっていた。
ほかならぬ与平とてそうだ。
最初はあまりにも子供たちに大人気なので、大丈夫なのかと探るために近づいたのだ。
それが、躊躇なく伸びてきた手で前髪を撫でられて、すとんと楓の言う意味を理解した。
いつの間にか与平もそのお身体の事を心配し、若君が嬉しそうなら無意識に心が浮き立つし、つらそうなときには心底気に掛かるまでになってしまった。
それを見て楓は笑うが、あいつだって若君の事を常に案じていて、薄着ではないか、足元が寒いのではないかと気を揉んでいるのは知っている。
不思議な御方だ。
何の衒いもなく微笑みかけられると、つい笑顔を返してしまう。
三日に一度は熱を出し、そうなったらしばらくは床から出ることもできない。
そんな貧弱さでは、この厳しい世の中で生き延びることは難しいだろう。
武士として、男児としては軽蔑すべき要素なのに、大人も子供も、若君を見る目にそのような色はない。
何ならよちよち歩きの喜助ですら、若君を気遣う気配を見せる。
隙あらばちゃっかりその隣に座る図々しさに、逆に文句が出ているほどだ。
しばらくして、渋る楓から若君の境遇を聞き出した。
唯一面倒を見てくれた世話係とここに逃れてきて、その世話係の老婆がこの冬を越せそうにないことも。
真っ先に、その継母と叔父とやらを殺してやろうかと思案していると、いつものようにペチリと額を叩かれた。
そうだよな。敵はご自分の手で討ちたいよな。
納得して頷いた与平に、再び楓が手を振り上げる。
「なんだよ」
「お馬鹿」
三度目にまた叩かれて、さすがにもう勘弁とばかりに身を引くと、今度はあきれ果てたように嘆息された。
「お武家にはお武家の事情があるのよ」
少し考えて、「わからん」と言うと、また叩かれそうになったので距離を開けた。
「うちらは福島家に雇われているんだから、余計な事しちゃだめよ。このままいけば、いつか若君のお役に立てる日も来るだろうし! とにかくあんたは修行に励みなさいよね!」
楓の言葉にはっとした。
大人になって、一人前の上忍になったとき、若君のために働くようになるのだろうか。
なんだかそれが素晴らしくいい事のような気がして、浮き立つ気分のままに唇をほころばせる。
それを見ていた楓の顔が、嫌そうに歪み……気持ち悪いと言われた。
そういうお前も最近ずっとニヤついてるじゃないか。
言い返したら倍になって帰ってくるので、反撃の言葉は飲み込んだ。




