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冬嵐記  作者: 槐
断章

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ヨネ(1-4)

 殺して差し上げたほうがよいと思うておりました。

 幼い童子の哀れな様は、見ていて胸が張り裂けそうになります。

 あの子もこうして苦しんだのでしょうか。血反吐を吐く思いをしてなお、死ぬまで嬲られ続けたのでしょうか。

 小さい身体を丸めて、苦痛に耐えている姿を見ていると、死んでしまった我が子を思い出してしまいます。


 燃えるような熱い息が、苦しい、つらいと言うています。

 若さまの小さなお身体は、日一日と軽くなっていき、まるでこの世とのつながりが切れる間際のようにも見えます。

 きっとこの先も、苦しいままです。

 死ぬまでつらい思いをなさるだけです。

 ならばいっそ、殺して差し上げたほうがよいと思うていたので御座います。


 やせ衰え、細い身体です。

 それも致し方がないこと。乳飲み子の頃から生きるに最低限のものしか与えてもらえず、むしろよくここまで生きてこられました。

 辛抱強い御子です。痛いとも、苦しいとも口にはなさいませぬ。

 ただ時折、「ヨネ」と細い声で呼んでくださいます。

 優しい御子です。


 それゆえになおさら、殺して差し上げたほうがよいと思うておりました。

 そんなにもお苦しいのなら、いっそ……と。

 そこまで思い切れなかったのは、やせ衰えてなお、若さまが生きようとなさっていたからです。

 時折うなされて、父上様をお呼びになります。

 我が子がどのような目に遭っているかも知らぬ、薄情な親です。


 ああもういっそ、連れて逃げてしまおうか。

 幾度そう思うたか。

 けれども、幼い童子を抱えて生きていくには、この世は厳しいところです。

 腰も曲がり、舌もなく、手指の掛けている老婆が、満足に子供を食わせていけるとは思えず……。

 ここよりましだと、思わない日はありませぬ。

 腹違いの兄や実の叔父に嬲られ、消えない傷を負うたびに、これ以上ここにいるのは無理だと思うのです。

 しかしそれでも、この身に連れて逃げるだけの力はありませぬ。

 もとより非力ではありますが、それは身分立場だけのものではなく、心根の弱さです。

 わかっております。わかっているのです。

 それでも、若さまにとってさらにつらいものになるのではと、二の足を踏んでしまいました。


 少ない食事にも毒が盛られるようになったのは、最近の事です。

 とうとう奥方様が辛抱しきれなくなったのだと、絶望しました。

 覚悟を決めねばなりませぬ。

 哀れな御子です。

 それでも、優しく強い御子です。

 そんな若さまに、苦しいだけのこの世はもはや相応しくないのでしょう。


 数日かけて、しまい込んでいた形見の小太刀を研ぎました。

 欠けた刃では、苦しませず御命を絶つことはできませぬ。

 ですが、日が一日一日と過ぎ、覚悟が定まらぬうちに、事は起こりました。

 粥を一口すすったのち、頭から床に打ち付けるようにして昏倒。瞬きひとつする間に、青白い骸のようになって、床の上に倒れてしまいました。

 しかも、それを待っていたかのように、哀れな若さまは連れて行かれてしもうたのです。


 苦しそうになさっていたのに。

 胸を掻きむしるように呻いておられたのに。

 どやどやと部屋に踏み込んできたお武家たちが、まるで汚物だとでも言いたげに、乱暴に運んでいきます。


 意気地なくもそれを止める事が出来ず、むざむざと運ばれていった後に、ひどい後悔と絶望に苛まれました。

 思い切れなかったこの身が悪いのです。

 もっとは早うに、殺して差し上げればよかった。

 苦しみを少しでも早う軽くして差し上げればよかった。

 戻って来た時、更にひと際身体は薄くなり、もはや呼吸もままならない有様でした。


 ようやく覚悟を決めました。

 研いだ小太刀を片手に、隣の部屋の襖に手を掛けます。

 ですが、そこにはすでに、先客がおりました。

 あかりのない暗闇の中、真っ暗な闇を背負った男にございます。

 その輪郭を捕えた瞬間、忘れていた怒りがこみ上げてきました。

 夫を、愛しい我が子を殺したかたきと、その影とを同一視してしまったのです。

 また奪うのか。

 その子も連れて行くのか。

 意識しないままに、四、五十年も前に学んだ動きで切り付けておりました。


 父は大和の国で武士をしておりました。武士と言ってもそのあたりの農民とほとんど変わらず、田畑を耕す傍ら、関所を守るお役目を代々になってきたそうです。

 実家は男子に恵まれず、代わりに女だてらに文武をしこまれて育ち、その時の教えが今、不審な男に刃を突き立てるというとっさの動きになったのです。


「ヨネ!」

 細い声が、すでにもう知る者も限られている名を呼びます。

「ヨネ」

 切り付けても切り付けても、影の男は動きませぬ。

 刃は届かず、しかも男は静かにその場に座ったままです。

 頭に血が上り、何も考えられなくなる寸前、「ヨネ」と幾度目かに名を呼ばれました。

「だいじない」

 柔らかな声でした。

 人を信じ切った……いえ、信じる事を知っている声でした。

 あのような育ちで、何故そんな心持ちでいられるのか。


 殺そうとしたのはヨネも同じに御座います。

 その細い首を刈り取ろうとしたこの身に、優しい言葉を掛けないで下さいませ。

 すみませぬ。

 すみませぬ。

 この世は苦しいところ故、お優しい若君には相応しくないと思うたのです。

 幼い御身に傷を負わされ、日々苦痛に呻く声を聞くたび、絶望を深めていたのはヨネのほうに御座います。


 夫の凄惨な死にざまが忘れられませぬ。

 死に目に会えず、無残な骸となった娘の姿が目に焼き付いて離れませぬ。

 いまだ生死もわからぬ、いえおそらくはもうこの世にいないであろう乳飲み子だった息子を思い出すのです。


 起き上がろうとなさった若さまに、影の男がとっさに手を差し伸べようとしたのに気づきました。

 この城で初めて見る、若さまへの気遣いでした。

 だからといって、味方だとは思うてはなりませぬ。

 忍びが人並みに他者に情けを掛けるとは思えませぬ故。


 信じてはなりませんよ、若さま。

 この世は皆、敵ばかりに御座います。

 忍びなど特に、人の善意に付け込む悪に御座います。

ちょっと変わった口調で書いてみました。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
[一言] ヨネの精神が思った以上に瀬戸際だったけど一線を越えなかったのは勝千代と中の人が生きるのを諦めなかったからで、それを知るのはヨネだけだったからなのかも知れません。
[良い点] 本編の冒頭あたりは、ずっと、雪の白と灯りのない暗がりに、音や熱や、命までもが吸い込まれていくような印象で、読んでいました。 暗くて、黒くて、白い、まるでモノクロの映画のような絵を想像してい…
[良い点]  第一章の余韻が今だぬこが膝の上に乗っかって来た様な感覚でじんわりと残っていて心地良いです。  第二章も期待しています! [気になる点] 腰も曲がり、舌もなく、手指の掛けている老婆が、 …
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