段蔵(1-4)
その童子は、まるで枯れ枝のように痩せていた。
頬はこけ、唇はかさつき、髪もいくらかパサついている。
コレが本当に御嫡男なのか?
誰もが思うであろうことを、段蔵も同様に感じていた。
金糸で縁取られた萌黄色の直垂が、ぶかぶかと身に合っていなくて重そうだ。
お付きの者が支えていないとまっすぐ座ってもいられないようで、時折びくりと動く手がまるで死人のように青白い。
高熱で赤くなった頬と、座っていても定まらぬ首、焦点の合っていない目。……知恵遅れの子だという噂は本当なのかもしれない。
正直に言おう、剛毅な殿の御子にしては……と落胆する気持ちがなかったと言えば嘘になる。
だが、雇われ者の段蔵が口にしてよい事ではないし、事実そう思っていても、殿の前でそう言える度胸のある者はいなかった。
「おお、お勝。辛いのか? かわいそうに。何故寝かせてやらぬ」
普段の殿からは想像もつかない柔らかな物言いで、童子をそっと抱き上げる。
子供を見つめる視線は優し気だが、悲しそうでもあった。
つい先日、殿の孫にあたられる今川の若君が亡くなられたばかりだ。福島家の血は武家らしく強壮だが、今川の血はやはり病弱なのだろう。
殿が臥所の上に若君を寝かせる。
ぐったりと四肢に力が入らない風の若君は、ひどくぼんやりと殿の顔を見上げていた。
その小さな手が震えながら動き、殿の頬に伸びる。
慌てたように手を出そうとしたのはお付きの男だ。
「よい」
殿はそう言って、大きな手でそっと包み込むように若君の手を握った。
「早うようなれ」
誰もがその弱々しい口調に衝撃を受けた。
ほかならぬ段蔵とてそうだ。
戦場では鬼人もかくやの殺戮者へと化す武人が、ここまで弱みを露わにするとは……
「殿、そろそろ若君はお休みになりませんと」
「そう、そうよな」
誰もが、殿の気落ちした表情を気づかわし気に見ていた。
だが段蔵は、若君の側にいるひとりの男の動きが気になっていた。
言葉にはできない違和感。一瞬の目の色のブレとでも言おうか。
思えば、その違和感が、何もかもの始まりだった。
「……毒?」
組頭の弥太郎の言葉に、思わず顔を顰めた。
貧民の子と言っても誰も疑わないほどに痩せ細った若君に、何者かが毒を盛っているというのだ。
こと毒物に関しては、風魔の中でも並ぶものがいないと言われる弥太郎の目は確かだ。
この男が感じ取ったのは、若君の側にいた男から漂ってきたほのかな匂いであり、毒物そのものではない。
だが思えば、焦点の合わない目といい、首の座らない様子といい、確かに中毒症状に見えなくもない。
ふと思い出すのは、薬湯を渋った幼い姿だ。
まさか苦さを厭うたのではなく、毒だと知って抗ったのか?
「報告が遅くなり申し訳ありません」
弥太郎は頭を下げるが、仕方がない事だった。
弥太郎に任せていたのは、引きも切らずやってくる間者への対処だ。
「匂いが気になったので、薬師が下げた湯呑みを調べてみました」
そこまで確認したのであれば、毒であることは間違いないだろう。
すぐに報告しなかったということは、使用された毒にそれほど緊急性はないのだろうが……。
「殿へは?」
知らせるのかと問うてくる弥太郎を見下ろし、思案する。
軍は再び前線に向かう準備を整えている。今さらそれを延期にするわけにはいかない。予定が大幅に狂えば、不都合も多発するからだ。
もちろん放置するわけにはいかない。
だが、殿にお知らせするのは、もっと状況がはっきりしてからでいい。
「確かめてみよう」
段蔵はそう言って、足元に転がっている間者の首をザクッと切り落とした。
その時はまだ、厄介な事だと思っていただけだった。
さぞかし殿は激怒なさるだろうと、この後の行軍の遅れなどの混乱に配慮してしまった。
配慮するのであれば、若君の御身にであったのに。
結局間者の排除とその背後を洗うことに時間をかけてしまい、若君の事に取り掛かれたのは出立前夜だった。
何より、「移る病」だからといって殿を遠ざけた際の、ご側室と城代の振舞いに確信が増した。
結果的に後回しになってしまったが、重要案件だということは確かだ。
それなのに、ともあれ生きているのだから、と軽く見てしまった。
殿が城にいるうちは動かぬだろうと、泳がす体制でいたのも良くなかった。
直垂の袖が少しめくれて見えた、真新しい火傷の痕。
付き人が支えた際に、かすかにこぼれた苦痛の声。
すべてが殿の目に止まらぬよう、それだけに気を配って隠されていた。
忍びである段蔵の目には、あまりにもお粗末な隠蔽だったが。
軍が出立した後、ひそかに舞い戻った段蔵が見たのは、ありえない場所に追いやられた若君の姿だった。
端も来ないような、朽ちかけた小屋の一室。
しかも衣服は破れそうな襤褸で、整えられていた髪も乱れている。
やつれ具合といい、一言もしゃべらなかった事といい、面差しのよく似た下人か端かが若君の身代わりをしていたのではないか、そんな疑惑さえ湧く。
それほどに、その童子はやせ衰え、栄養状態も悪く、呼気も弱かった。
眠っている傍らに降り立ち、そっとその腕を取る。
折れそうに細い。
まくり上げた腕には、不格好に手当てしなおされた火傷。
ぴくり、とその薄い瞼が動いた。
闇の中、ゆっくりと開いたその目。
視線が重なった瞬間、しびれるような衝撃が背筋に走った。
「……だれ」
かすれた、頼りない声だ。
しかしその視線は、これまでの茫洋とした、焦点の合わないものではなかった。
「ご無礼をお許しください」
この御方は本物だ。間違いなく殿のご嫡男の勝千代様だ。
段蔵は目礼してから、そっとその薄い袖をめくった。
一番ひどいところの手当てはしなおされているが、まだ薬を塗っておくべき場所が他にもある。おそらくは、肝心の薬が手に入らないのだろう。
傷から体液が出るほど酷くはないが、まだ痛むのではないか。
「……なに?」
美しく澄んだ眼差しの童子は、一目で忍びとわかる段蔵に触れられても、嫌悪の表情ひとつ浮かべなかった。
ただ無垢な目で見つめられて、ひどい後悔に苛まれる。
一刻も早くお救いするべきだった。すぐにも殿にお知らせするべきだった。
最優先事項を見誤り、危うく間に合わない状況になっていたかもしれない。
それほどまでに、若君のお身体は弱り、残された体力も微々たるものに見えた。
 





 
  
 