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冬嵐記  作者: 槐
第八章

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262/308

41-10

 雨あがりの昼過ぎ。きらきらと雫が照り返す明るい日差しが眩しい。

 まだたまに寒い日もあるが、大地は芽吹きの季節を迎えていた。

 枯れていた木々の枝に、うっすらと淡く新芽のヴェールが掛かり、ソメイヨシノではなく、もっと色の濃い桜が点々と山を染めている。

 春が来たのだ。

 風は冷たくとも、肌に当たるその感触は柔らかく、優しい。

 鶯やそのほかの野鳥たちも、声高らかに鳴いている。

 すべてのものが、今日というその日を祝福しているかのように見えた。


 見下ろす丘の下には、長い兵士の列が連なっている。

 到着を待つ人々の興奮した声が、そこかしこから聞こえる。

 ここはかつて父を見送った場所、駿府の町はずれの街道沿いだった。

 もうずいぶん長い間ここで立っているが、まだ父の姿は見えない。

 そわそわしているのは勝千代だけではなく、大人も子供も、今か今かとその登場を待ち構えていた。

 眼下に見えるのは、まるで大蛇のような隊列だ。街道沿いに続く大軍の行列は、うねりながら地の果てまで続く。

 それは、掛川城から曳馬城へと向かったあの行軍を思い起こさせた。

 しかし歩き方、隊列の組み方ひとつとっても、はるかに練度が高いのが素人目にも見て取れる。

 その中核をなすのは、福島軍だ。

 そして、遠目に見えてきたのは……

 無意識のうちに、じわりと視界が滲み、瞬きを繰り返していた。

 父だ。

 遠くからでも、ひと際巨大な軍馬の一団と、あの小山のように屈強な体格が見て取れる。

 ぐっと肩を握られて、走り出してしまいそうだったことに気づき赤面した。

「すぐですよ」

 次第に大きくなる歓声の中、志郎衛門叔父が耳元で声を張る。


 言われるまでもなく、父がこちらに気づいたのが分かった。

 黒い軍馬がいきなり駆けだしたので、折角の隊列が慌てて左右に避ける形で乱れる。

「……お勝!」

 もの凄く距離があるのに、その大音声ははっきりと勝千代の耳まで届いた。

 ああ、父だ。

 無事だと聞いてはいたが、実際にその姿を目にして込み上げてくるのは安堵だ。


 父と別れてから、幾度となく命を狙われた。

 それは父も同様だったと最近聞いた。直接殺すのは難しいからか、何度もその食事や水に毒を仕込まれたそうだ。

 弥太郎の次に毒物に詳しい男が張り付いて、常に毒見を欠かさず、それでも幾度かは危うかったと聞く。

 よく無事で。

 そんな感情がこみあげてきて、視界に涙の幕が張る。


 怒涛の風か、いや野生動物の突進のような勢いで、小山のような父が駆け寄ってきた。

 途中で乗り捨てられた馬が、鼻息も荒く前足を踏み鳴らし、周囲の兵士たちが慌てて手綱を引っ張るのが見て取れる。

 いや、そんなことより……

「お勝!」

 大きな手でひょいと抱き上げられ、ブン! と耳元で風を切る音が聞こえた。

「兄上、勝千代殿が目を回してしまわれます!」

 慌てた叔父がそう叫ぶのが聞こえた。

 まったくもってその通りなのだが、抗うつもりもそう思う間もなかった。

 大勢の歓声と、大軍の具足がこすれる音や軍馬や荷馬車の音で耳がうわんうわんと鳴り、それ以上に、「お勝ぅ」と何度も呼ぶ父の声に鼓膜が占領され、それだけでもういっぱいいっぱいだったのだ。


 ぎゅっと、父の紺色の鎧紐をつかむ。

 兜の垂れが頬に当たって痛いとか、鎧の角がわき腹の肉に刺さっているとか、そんな事はどうでもいい。

 父だ、父上だと、壊れたレコードのように繰り返し思い、己がどれほどこの不倒の男を頼りにしていたかをまざまざと知った。

「ご無事で何よりです」

 涙で声が震えないように努めたが、無理だった。

 小声でそう言った勝千代に、更に抱き込む力が強くなる。

「そなたもよう頑張った」

 勝千代は目を閉じ、改めて父に両手を広げて抱き着いた。 

 小柄な勝千代が腕を広げても、筋肉の張った父の身体に手を回すことはできない。

 相変わらずのもじゃ髭。チクチクどころではないごわごわ感。

 長期の遠征のためにお世辞にもいい匂いがするとは言えない。むしろかなり臭い。

 だがしかし……父だ。


 勝千代にはまだ、中の人という自意識がある。

 だが同時に、己が四歳の幼気な童子であるという自覚もあった。

 肉体だけの問題ではない。この精神もまた己の一部だと感じ始めていたのだ。

 子供としての部分が、ようやく父親に再会できたことに歓喜している。この、腹の底から込み上げてくる安堵は、本来の勝千代としての素直な感情の吐露だ。

 大人としての己と、子供としての己。

 並立しているようでいて、根本は融合している。

 それに対する違和感などは、まったくない。


 勝千代はぎゅっと父の頬に顔をくっつけ、その首筋に額を寄せた。

 手甲をつけた大きな手が、包み込むようにその後頭部に手を乗せる。

 改めてよかったと、繰り返し思いながら、その耳元に口を寄せる。

「……桃源院様でした」

 何の脈略もなく、説明もない。

 そのつぶやきに、父も一言「そうか」とだけ低く応えた。

終わり方についてはいろいろと考えていましたが、やはりお父さんの帰還シーンは外せませんね。

周囲はきっと微笑ましく見守っている事でしょう。

父と子の最後の会話は、他の人の耳には届いていません。


ようやく書き終えました。

長く厳しい冬でした。

前話のあとがきでも書きましたが、引き続いて閑話を十話ほど挟み、新しい話として8歳の勝千代が登場します。

楽しみにしていただけると嬉しいです。


リクエストは閉め切らせていただきます。皆さま、ありがとうございました。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
一代記というからには太原雪斎の跡を継ぐ今川家の軍師として大人になっても活躍する姿が見たいなあ( ̄▽ ̄;)これで一代記だとこの後すぐ病気か暗殺とかで死んだみたいで切ないです
[一言] >ようやく書き終えました。長く厳しい冬でした。 途中でやめられず、週末をつかって2日間で読み終えました。 読ませるなぁ…と感心しながら読ませていただきました。 勝千代の自分のペースを崩…
[良い点] 日本史に興味は無く、基礎知識も殆ど無いので用語を検索しながら読み進めましたが、とても面白く素晴らしい作品でした。 [気になる点] 三河の東西がところどころ間違っているようですが、こちらの勘…
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