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勝千代の視力でギリギリ容貌が判別できる距離に、三方の上に置かれた首がある。
興津が視察に行くはずだった三河との関所。
誰もいない三河側に台を立て、その上に三方を置き、さらにその上にまるで作り物のような大林の生首が乗っている。
遠江側から作業する者が何名か出入りする以外は、人影はない。
見物人のいない寂しい舞台に、わざとらしく小道具が置かれている、そんな感じだった。
冷えた風がバタバタと旗を揺らす。
真冬の清涼な風の匂いが鼻腔を満たす。
曳馬攻めの後はこの辺りでも戦闘があったというが、今はもう死体ひとつ、血の匂いひとつなかった。
冷たい風が木枯らしとなって吹きすさぶ。
だが、ふと見下ろした足元には、タンポポがロゼットを作って冬越しをしていた。
青々とした、新春を思わせる色味だった。
まだまだ風は冷たく、大地は氷のように硬いが、もうすぐ如月も終わる。暦の上ではとっくに春なのだ。
「戻りましょう。もうすぐ日没です」
興津に促され、最後にもう一度と大林の首を見る。
関には国境を守る一団が布陣している。
少し離れたところには小さな町もあり、生活するには問題なさそうな立地だ。
しかしそんな賑やかな遠江側に対して、国境を境に三河側は人の気配も動きもない。
「獣に食われたりはしませんか」
「構わないかと思いますが」
平然とそんな事を云う興津に目を向けると、少し慌てたように首を左右に振られた。
「番人に見張るよう言うておきます」
そもそも、首を晒してもそれを取りに来るものがいるとは思えない。
放置された生首は、真冬とはいえ痛む。そのうち蛆が湧き、腐り果ててしまうだろう。
それと獣に食われるのとどちらがマシか。
「やはり牧野家に送りつけたほうがよかったでしょうか」
「そこまで親切にすることはございませぬ」
「一応は大将首です」
「話を聞いていると、受け取らぬと言いそうですが」
そう、大林は牧野家及びその家老家である家族らにまで冷遇されていた。
扱いがかなり悪かったというのは事実のようだ。
原因は大林家に実子の嫡男が生まれた事だろうが、それにしても、ここまで嫌うかという程の待遇だった。
一度対面した時の、あのギラギラとした生気にあふれる目を思い出す。
連中は、己が切れそうな獣の鎖をもてあそんでいたことに気づいているのだろうか。
再度促され、乗ってきた黒馬のほうに向かう。
ぶるると鼻を鳴らした馬は、相変わらず勝千代の髪の毛をむしろうとするので、手綱を握った三浦がかなり苦労して引っ張っていた。
今日乗せてくれるのは源九郎叔父だ。
コロコロと、まるでボールのように着ぶくれした勝千代を器用に抱え、颯爽と馬にまたがる。
曳馬城から関までの道中、ずっと海辺を走っていると思っていたのだが、よく見れば対岸に何かがあった。
そこでようやく、浜名湖ではないかと思い当たった。
つまり曳馬城は、後の浜松城かもしれない。
そんな事をぼんやりと考えながら、流れていく景色に白い息を吐く。
「寒いですか」
源九郎叔父のかすれた声が気づかわし気に尋ねてくる。
「……いえ」
「勝千代殿は辛抱強い。我慢するより言うてくれた方が良い」
首を落とされてなお放置される大林とは違い、勝千代には気遣ってくれる者がたくさんいる。
その事に、鼻の奥がツンと痛んだ。
同情ではない。大林のしたことは、到底許されるものではない。
ただ、こんな世の中にただ一人取り残され、孤独に死んでいくしかない身の上を、つい中の人の境遇と重ねてしまった。
「……少し寒いです」
源九郎叔父は黙って羽織を脱ぎ、勝千代を覆った。
これでは叔父が寒いと言おうとすると、左右に首を振られる。
「次の休憩のときに、温石を用意させましょう」
着ぶくれしすぎているので、今さら一枚増えたところで違いはないのだが、そんな叔父の気遣いこそが暖かく、うれしかった。
曳馬城に戻るころには、周囲は完全に夜になっていた。
月には少し雲がかかっていて、闇が深い。
部屋の前では弥太郎が湯気の立つ濯ぎを用意して待っていた。
素足になり、氷のように冷え切った足を熱湯のように感じるぬるま湯で洗ってもらう。
「……お寒うございましたでしょう」
「温石があったから」
ここはまだ外なので、吹き込む夜風はかなり冷たい。
湯を用意してもらっても、あっという間にそれも冷える。
弥太郎は丁寧に、しかし素早く勝千代の足を洗い、乾いた手ぬぐいで拭った。
「……あの者は」
「持ち直しました」
勝千代はほっと息を吐いてから頷いた。
大林は……いや、大林源助はすでにもう死んだ。
大林によく似た容貌の重傷者は、仮に勘助と呼ぶことにしようか。勘助の生きようとする精神力は凄まじく、弥太郎をして危篤と言わしめた容体から持ち直したようだ。
ただ、あの低くつぶれたような声がどこまで戻るかはわからないという。
半々の確立で、声を失うそうだ。
膝から下は潰され、手の指も半分はなく、片目もない。更には声まで失えば、ここから逃走できたとしても、まともに生きていくことは難しいだろう。
「どうされますか」
弥太郎の問いかけに、首を振る。
尋問が終われば処刑されるだろう男の行く末を、案じてやるのもおかしな話だ。
勝千代の方からできることは、もう何もない。




