41-2
ここ一週間ほど、息子の推薦入試の為、ほぼ校正→更新と書き貯めを吐き出すだけでした。
誤字の修正や感想の返信など、随時やってまいりますので、少々お待ちください。
野性味のある梅の木を見上げながら、この時代の人が連想するのはおそらく梅干しなのだろうが、勝千代が思い出していたのは梅酒だった。
あるいは、梅味の飴かシロップ。梅の匂いに甘みを足すと、あの懐かしい菓子の匂いになる。
梅酒だろうがシロップだろうが、大量の砂糖が必要だから、今口の中に広がる妄想の味を堪能する日は来ない。
食べることができないとなると無性に食べたくなるが、無理なものは無理だ。弥太郎ではないが、「難しい」のではなく、今日明日それを口にするのは実質的に不可能なのだ。
まず梅の実がない。今開花中の花が結実したとしても、焼酎もなければ砂糖もない。
徒然と、梅酒あるいは梅シロップ作成方法について思いを巡らせてみる。
砂糖は希少だが、手に入らなくもない。梅シロップのほうだけなら、作れるかもしれない。
いや、この時代の砂糖は黒砂糖あるいは水あめだろう。真っ白に固められた氷砂糖を作るところから始めなければいけないのか?
「……井伊殿です」
土井がそっと教えてくれたので、近づいてくる前に振り返り、心構えをすることができた。
もの凄く深刻そうな硬い表情で近づいてくるのは、昨夜とんでもない酔態をみせてくれた井伊殿だ。
二日酔いか、昨晩の記憶が残っているからか、青ざめた顔に精気はない。
井伊殿は少し手前で足を止めて、勢いよくその場で両ひざをついた。
……どこかの男前を思い出す土下座姿だ。
「まことに申し訳ござらぬ!」
夕べご機嫌でひしゃくを投げてきた男が、身体を小さくして謝罪する。
「いつもはこのような事にならぬよう酒量を控えているのですが……」
「頭を上げてください。こちらこそ、楽しい酒の席に無粋な真似をしてしまいました」
もちろん本心からそう思っているわけではない。
お酒はほどほどに。酒癖で乱れるほど飲むのは控えるべきだ。
井伊殿の背後には問題児のほうの息子がいる。
いつも通り勝千代に対して小難しい顔をしているが、父親の土下座についてはそれほど気にしている風はない。
飲み過ぎて暴れて、翌日謝罪廻りをするのは毎度のことなのかもしれない。
「飯尾殿の件はお耳に入りましたか?」
四歳児相手にずっと頭を下げさせているわけにはいかず、話を変えることにする。
「私の方も寝過ごしてしまって、気づいた時には出立した後でした」
一呼吸おいて顔を上げ、丸い額に土をつけた状態の井伊殿がこちらを見上げる。
「一応後は追わせておりますが、身柄を拘束することは難しいでしょう。よくて、逃亡させず今川館に入るのを確認する程度かと」
飯尾殿を連れているのは奥平だ。
身分的な問題で、うちの者たちではその行動を咎めることはできない。
状況的に考えて、曳馬へ連れ戻すのは難しいと思っておく方がいい。
井伊殿は、膝をついたままの体勢で、ぎゅっと顔を顰めた。
「興津殿にも止められなかったようですな」
「井伊殿たちにとって、都合の悪い話にもっていくやもしれませぬ」
「……いや、我らは今川家に臣従しているわけではござらぬ故に」
「ですが、赦しなく兵は動かさぬという約定を交わしているのでしょう?」
そう、井伊殿たち国人衆は、先だっての遠江の敗戦の後、領地を安堵する代わりに兵力の増強及び勝手な動員は固く禁じられているのだ。
興津の呼びかけに応じた中北部の国人衆については、その「赦し」があったとみなされるだろう。
だがしかし、井伊殿ら初期から曳馬を封じ込めていた者たちは、何がしかのお咎めを受ける可能性がある。
もとより、それは重々承知で‘集まってくれたのだ。
三河から遠江に侵攻されるという大事に、赦しがないからと動かないわけにはいかない。
だが、あの奥平が状況をどう脚色するか。
任せておくのは危うい気がする。
「江坂の叔父は、これから駿府へ向かうようです」
「……大林はどうされるのです」
「移動中に万が一の事が起こるとも限りませぬ、動かすのは危険。かといってここに置いておくのも危険」
志郎衛門叔父が飯尾殿の事を何も言わなかったのは、気にしていないからではなく、興津にも止められなかったものを叔父が止めることなどできず、大林の尋問がひと段落着いてから叔父自身で駿府に行くつもりでいたからのようだ。
勝千代に何でもないふりをして見せたのは、おそらく、同行すると言い出すのを恐れての事だ。
叔父は、勝千代が駿府に行くことを危ういと考えている。
誰も何も言わないが、勝千代の命を狙うものが今川館にいると分っているのだ。
「盤面は見えてきました」
勝千代は再び梅の木に視線を戻しながら言った。
「指し手たちが何を考えてどのような一石を投じたのか。……遅まきながらですが」
紅梅の強い匂いに鼻が慣れてきたのが惜しい。
隣り合っている若い白梅の頼りない枝ぶりと、年経た古木の紅梅とを見比べて、まるで己と老練な指し手のようだと感じた。
「お願いがあります」
「……何でございましょうか」
「立ち会っていただきたいのです」
井伊殿は少し首を傾け、怪訝そうな表情で頷く。
「それは構いませんが……どなたとお会いになるので?」
「原、久野両氏に」
有力国人領主である彼らを長く拘束しておくことが出来ず、彼らは興津が言っていたように、曳馬戦での先鋒を務めた。
どちらも無事生還したし、原のほうは武勲も上げたようだが、その子供たちはまだ掛川城で囚われの身だ。
井伊殿は感心しないという顔をして、眉間にしわを寄せる。
「江坂殿も立ち会われるのでしょうか」
「いえ、叔父はすぐにも駿府に出られるそうですので。……ご心配なく、許可は得てからにします」
それよりも井伊殿。
そろそろ立ち上がってくれないだろうか。
先程からずっと、御子息の彦次郎殿がこっちを睨んでるんだけど。
「おそらく私も、数日後にはここを離れます。それまでに片を付けたい」
勝千代の行き先は高天神城だ。
叔父は駿府へ同行することを許しはしないだろうし、自身の年齢を考えれば、保護者筆頭が不在の状況で、再び最前線にもなり得る城にとどまることはできない。
「承知いたしました」
井伊殿は若干躊躇ったものの了承してくれた。
……膝をついたまま。




