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覚悟していた以上におどろおどろしい場所だった。
掛川城で地下牢に入ったことがあるが、それ以上に、血と糞尿の臭いが充満している。
おそらくは氷点下になっているだろう。にもかかわらず、人間の生というか、命の残滓のようなものを感じる。
とはいえ、誰かがいるような気配はない。
弥三郎殿ではあるまいし、興津が投降してきた者を皆殺しにしたとは思えないので、その者たちはここではないどこかに収容されているのだろう。
なるほど、別格か。
大林から搾れる情報はそれほど重要なものだとみなされているのだ。
「こちらです」
弥太郎が案内したのは、闇よりもなお真っ暗な、深い石階段を下った先だった。
光源になる明かりなどまるでないその闇の中で、大林は何を考えて最期の時間を過ごしているのだろう。
人道的な扱いをしてやれなどと、言うつもりはない。
大林は敵方の大将格で、なにより、曳馬城の井戸に毒を投げ込むよう指示した者だからだ。
ふと、現代日本では、犯罪者にも人権があり、裁判はもとより最低限の食う寝るの世話を国がするのだと思い出した。
たとえ死刑囚でも、その最後の瞬間まで平穏無事に生かされる。
深く考えたことはなかったが、かなりの矛盾だ。
だが、例えば今現代日本に戻ったとして、重犯罪者などすぐ殺してしまえなどと発言すれば、それはそれで周囲から奇異の目で見られてしまうだろう。
ずっと、昔の己の価値観にとらわれていると感じていたが、どうやら徐々にこの時代に馴染んできていたようだ。
あまりのも人の命が軽すぎる。
あまりにも簡単に血が流れる。
目の前であっけなく散っていく命を惜しむ一方で、それをもたらした者への憎しみが確かにある。
大林を目の前にして、自身の手で殺せるかと問われると……難しいだろうが。
「誰だ」
闇の中からしわがれた声がした。
つぶれて枯れたような声だった。
南が手に持っていた松明をさっと掲げると、暗がりで眩そうに顔をそむける男の姿が見える。
太い格子木の牢屋の向こうにいるのは、身なりこそそれなりだが、満身創痍の男だった。
まず顔面に大きな怪我をしている。片目を覆うように顔の上半分に布を巻かれていて、かなりの血がにじんでいるのが見て取れる。
光を厭うように掲げられた手にも布が巻かれていて、もしかすると数本指が欠けているのかもしれない。
更には、前に出た南を警戒して身を引いたその動きがぎこちなく、岩肌の床の上で尻で後ずさる様子から、足を負傷しているとわかる。
大怪我だ。命に係わるほどの。
それでもなお、男には野太い生気のようなものがあった。
まるで手負いの獣のようだった。
多くの命を奪ったことへの覚悟だろうか。
いや、そもそもそんな悔いを抱くような感性があるなら、井戸に毒を投げ込むのではなく、別の手段を取ったはずだ。
弥太郎は、「会えばわかる」と言った。
何をしてそう言わしめたのか、片方だけの目と視線が合った瞬間に理解した。
ギラギラと、強い何かを秘めた目だ。
死ぬと口にしたというが、覚悟を秘めたような感じではない。
そこにあるのは怒りだ。深く根強い憎悪だ。
むき出しのその感情が、勝千代にも容赦なく向けられる。
……この男が死ぬと言ったのか?
「ここはあなたのような方がいらっしゃるところではありませんよ」
ニヒルな口調でそう言って、眩し気に顔をそむける。
「死にゆく者を眺めにでもいらしたか」
「大林源助か」
「一応はそう呼ばれていましたね」
「気に入らない名なのか?」
大林は鼻を鳴らし、これ見よがしに舌打ちした。
「では、何と呼べばよい」
「何とでも」
どうせすぐにこの世を去るのだからと、そう言っているつもりなのだろうが……いや、どう見ても死を覚悟した者の顔ではないぞ。
「……なるほど」
弥太郎が会えと言ってきた理由はこれだ。
まだ生を諦めていない。
一目でわかるそのことを、興津たちは気づいていないのか?
「それでは源助。私が誰かわかるか?」
「もちろんですとも。福島の麒麟児。今川の大殿は玉を捨てたのだと言われておりますよ」
「親は子を選べても、子は親を選べぬ」
源助はフンと鼻を鳴らし、「それでも貰われた先が祖父、しかも大身であれば文句はありますまい」と嗤った。
「知っていてよく言う」
勝千代の事を調べたなら、多かれ少なかれ事情は知っているだろう。
物心つく前から伸びないようにと頭を押さえつけられ、自身には何の価値もないと思い込まされて育ったのだ。
虐待の事までは知らないかもしれないが、父の居らぬ間にどのような扱いを受けていたか想像はつくだろう。
「人にはふさわしい場所というものがあるのですよ」
なるほど? 多少つらい思いをしようが、結果が良ければそれでいいじゃないかと?
「では、その方の『ふさわしい場所』は地下牢か」
ぎろりと片方だけの目で睨まれた。
その抜身の刀のような鋭さは、相手が子供だろうが容赦ない。
普通の子供なら泣いていたぞ。
「それとも、別のどこかか」
勝千代は注意深く源助の表情を見守りながら、言葉を続けた。
「残念ながらそのほうには先はない。あったやもしれぬ『ふさわしい場所』へは、たどり着けぬだろう」
源助は小さく自嘲するかのように唇をゆがめ、顔を俯かせた。
一応は殊勝に見える。見えるはする。……だけど、嗤ったらだめだよ。
勝千代は子供のなので、低身長だ。普通の大人なら覗き込まなければわからないものが、視線の高さではっきりと見える。
これではっきりした。
……この男、逃げる気だ。




