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「……壊れた甕は片して。盃も一人一個まで。ひしゃくは回収」
どんな時代であろうとも、酔っ払いの対処は決まっている。
飲ませるなら量をセーブさせる。
飲ませたくないものは引っ込める。
誰だよひしゃくで飲みだした奴。……って井伊殿か。完全に出来上がってるな。
勝千代の指示に、ぽかんとした空気が流れたのは一瞬。
おそらくそれぞれの主人の酔態に手を焼いていたのだろう、真っ先に動き出したのは井伊殿の家臣だ。
福島家側も、黙々と飲んでいた源九郎叔父の膳から、三つの盃が回収される。
「ああ……」と情けない声を上げて引き留めようとするが、駄目です。飲んでもいのは、その盃で飲める量だけです。
誠九郎叔父も、さりげなく抱えた酒甕を隠そうとしないで!
「何か腹にたまるものを」
酒ばっかり飲んでいるから悪酔いするのだ。楽しく飲むなら、適度に腹を満たしておかないと。
吐く? いやいや、それは飲みすぎ。あるいは酒が体質的に合わないか。
何故四歳児が深夜にこんなことをやっているのだろう。
ちんまりとした身体で仁王立ちになり、あれやこれやと指さし指示する。
ああ、折角の金箔細工の襖に穴をあけたのは誰だよ! ちゃんと弁償しろよ弁償!
「すみませぬ」
顔は真っ赤だが、見た目ほど酔ってはいない興津が神妙な口調で謝罪する。
「なぁにを謝る総大将殿! そもそも気に入らぬのが……」
井伊殿がものすごい声量で怒鳴り始めた。
久々に、一瞬耳がキーンとなった。それほど近くにいたわけでもないのにこれでは、隣席の興津の耳が馬鹿になるのも頷ける。
酒宴の騒ぎは聞こえなかったのに、二人の声だけが遠くまで届いたのは、間違いなく井伊殿の馬鹿でかすぎる声量が原因だろう。
興津もつられたんだろうな。
時折訛り過ぎて意味が分からないところもあるが、おおむね、今川家への憤懣だ。
そこに勝千代が混じっていないことに何よりと思えばいいのか、急に号泣し始めた井伊殿が、ボロボロと涙をこぼしつつ更に怒鳴る「御気の毒な勝千代殿」の台詞に情けなく思えばいいのか。
「申し訳ございません」
青白い顔で重ねて謝罪してくるのは御嫡男小次郎殿だ。
問題児のほうも、「オヤジ! いい加減にしろよ!!」と、父親と全く同じ色の顔色で怒っている。
明らかに未成年なのに飲酒か……この時代には「お酒は二十歳から」だなんて決まりはないからなぁ。
「うっ」と真っ青な顔で口を抑えた小次郎殿が、腰を浮かせた。
あっ、吐く?! と慌てたのは勝千代だけで、その真後ろに控えていた側付きが素早く桶を口元に差しだしていた。……手慣れているな。
「お開きにした方がよさそうですね」
適度に節制をした楽しい酒の席なら構わないのだが、これはひどすぎる。
なにより、普段は誰よりも理知的で頼りになる井伊殿の酔態に、大人たちがおおいに盛り上がっているのが良くない。
ブーイングこそ起きなかったが、明らかに不満そうな顔をされ、それでも勝千代は「ここまで」と決めた。
「皆、酒を片して。湯漬けはまだ?」
酔っ払いたち以外は皆ほっとした様子で片づけを始めた。
やがて運ばれてきた白飯に湯を掛けただけの物に、特別に梅干しをサービス。
皆に配られ、神妙にすすり始めたのを見て良しと頷いていると、お盆の上に一杯ぶんだけ残っているのに気づく。
誰が食べていないのだろうと見回してみると、井伊殿だった。
まあ、あれだけ飲めば無理はない。
すっかり出来上がってしまった井伊殿は、そのまま床の上に転がって気持ちよさそうに眠っていた。
「面目ございませぬ」
絵具を塗ったように真っ赤な顔をした興津が、食べきった湯漬けを脇に置き深々と頭を下げる。
その頭が一瞬ぐらりと揺れたのは見逃さないぞ。どれだけ飲んだんだよ。
「寝間の方まで声が聞こえてきた」
酔っていても、勝千代の苦言の意味を察する能力は残っていたらしい。興津は情けない表情でうなだれる。
「井伊殿に話した?」
勝千代が、ひどい虐待を受けて育ったという事を。今もなお、命を狙われているという事を。
「……少しだけ」
その少しだけ、というのがどの程度の物かわからないが、すでに喋ってしまったものは仕方がない。
ため息をつくと、ますます身を小さくする。
今川の総大将が、そんな顔をするんじゃないよ。
「もういい。今日は休め」
まだ飲み足りなさそうな酔っ払いどもを、何とか部屋から追い払う。
更に飲みたいなら自室でやってくれ。
福島家の叔父たちを含め、参加者たちが引き払った酒宴の後は、ため息のひとつでは足りないほどの惨状だった。
おそらくはこの時代の最先端の造りなのだろう内装が、見る影もない。
特にひどいのが襖に空いた大穴だが、それだけではなく、壊された物がそのあたりに散乱しているし、真新しい畳にも色々とぶちまけられて台無しになっている。
「すまないが、片付けを頼むよ」
この城にはまだ端の仕事をする者がいない。
一生懸命畳を拭いているのは、酔っ払いどもの側付きや従者たちだ。
深夜にやらせることじゃないだろうと、労働基準法の観念がまだ頭にある勝千代がそう言うと、彼らは不快そうな顔どころか、ものすごく嬉しそうな顔をして頷いた。
何を喜ばれているのかわからず首をかしげると、「若君ももうお休みください」と口々に退去を促してくる。
まあ、四歳児がいたら片付けの邪魔だろうしね。
仕事熱心な男たちにねぎらいの言葉を残して、勝千代もまた広間を出る。
庭に篝火が焚かれ続け、にぎやかな宴の際は眩いばかりだったが、騒ぐ連中もいなくなれば妙に寂しげに見える。
パチリパチリと燃え上がる火の粉が、雲一つない真冬の空に飛ぶ。
雲一つないという事は、満天の星ということで、火の粉はまるで星のひとつであるかのように美しく見えた。
そんな折角の贅沢な風景を邪魔するかのように、さっと南が身体を寄せてくる。
壁のように立ちふさがるという事は、意図せぬ何者かが近くにいるのだ。
勝千代は周囲に目を向けた。篝火のおかげでよく見える。
「やあ、すいません。ちょっとお話よろしいでしょうか」
その、何とも言えぬ気が抜けるような声の主は、朝比奈弥三郎殿だった。




