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曳馬に到着する前から、早馬で状況は逐一伝えられていたので、戦闘に突入するのも早かったし、大軍で敵を圧倒するのもすぐだった。
そうなることを恐れて、曳馬は井伊殿たちに特攻を仕掛けようとしていたが、もしそれがうまくいってこちらの陣を抜けることができたとしても、先は見えていただろう。
ただ、本隊が見える位置に来た時の、彼らの動きが気になった。
玉砕を覚悟しての特攻にはとても見えなかったのだ。
何か目的があっての攻撃? そうでなければ、三河方面ではなく真逆に陣を破ろうとする理由がない。
考えられることがあるとすれば、三河からの援軍を期待してだろう。
だが、今の段階で東三河、あるいは西三河の松平などに大きな動きはない。
それを知らないという事はないと思うのだが、淡い期待ゆえのあえての行動か、あるいは自暴自棄か。
ともあれ、曳馬は落ちた。
勝千代の目には凄惨に見える戦場だったが、これでも比較的楽で軽微なものだったという。
城に近づくにつれ、いたるところに三河兵の惨殺死体が転がっていた。
「新鮮な」死体からは腐臭などはしないが、代わりに生臭く、本能的に息を止めたくなる悪臭が漂っている。
動かない遺体の多くは仰向けで、おそらくは確実に仕留めたかどうか確認のためだろう、やけに顔がはっきりと晒されていた。
その双眸が捕える虚空には、何も映っていない。ぽっかりと見開かれた黒い目が、ガラス玉のように光っている。
「勝千代殿!」
あまりの死体の多さに、息を止めているのも限界に達したころ、場違いに明るい声が勝千代の名を呼んだ。
井伊殿だ。
背後で側付きたちが身構える気配がしたのは、井伊殿の背後に御子息と思われる二人の青年がいたからだろう。
片方は知っている。勝千代に露骨な嫌悪感を見せてきた男だ。
今もものすごく渋い表情だが、周囲の手前何も言うつもりはないようだ。
「見事な御武功にございました」
とてもお祝いをいう気分ではなかったが、人付き合いというものもある。
こういう時にはお祝いだろうと、頑張って笑顔を作って賛辞を贈る。
「いや! すべて勝千代殿のおかげですよ」
井伊殿、声が大きい。
死体の始末をしていた下っ端たちが、何事かとこちらを見ている。
井伊殿の背後でも、御子息の少なくとも片方は不満そうだし。
「ここはまだ少々危険です。敵が身を潜めているやもしれませぬ。本丸の方へ」
戦に勝って武勲を上げたのがうれしいのはわかる。
だが、ニコニコしすぎじゃないだろうか。
……違うな。純粋に勝利を喜べない勝千代こそが、ここではおかしいのだ。
案内されて、曳馬城の本丸へと向かう。
大手門から内側は、外以上に死体が多く、むしろまだ怨嗟の呻き声が聞こえてくるぐらいだ。
息がある者もいるのだろう。
下っ端たちがそれに止めを刺してく。
戦意のない者まで殺すのかと、飛びだしかけた言葉を飲み込む。
生き残りを生かしておくという考えがそもそもないのだ。
勝千代には「戦時捕虜」という考え方があるが、もちろんこの時代にそういう甘い価値観などない。
例えば将来的にそういう考えを浸透させたいと思っていても、今すぐに頭ごなしに言っても反感を買うだけなのは理解している。
郷に入れば郷に従え。
それをわかっていても、文化の違い、価値観の違いはかなりのストレスだ。
無意識のうちに喋る言葉が減り、もしかしたら呼吸すら少なくなっているのではないか。
緩やかな坂道を登りながら、少し収まっていた頭痛にまた悩まされる。
短い脚で一生懸命歩いて、本丸が間近に迫ってくる。
見上げると、今川の旗。
込み上げてきたのは、苦い感情だ。
本丸の前では、興津ともう一人、顔に大きな赤いあざのある男が待ち構えていた。
少し遠くから見えていたのだが、勝千代の歩みを辛抱づよく待ってくれている点だけでも、その忍耐力を讃えたい。
四歳児の歩幅は小さく、歩く速度もゆっくりだ。
案内してくれる井伊殿も辛抱強い。
童子などひょいと抱えて行けばずっと早いと分っていて、その歩みを邪魔しないのは、勝千代をただの童子ではなく、福島家の嫡男、この戦の立役者として評価してくれているからだろう。
こちらも待たせているという焦りがあるから、一生懸命速足を心掛けているのだ。
次第に息が上がってきて、ぜいぜいと肺が鳴る。
まるで持久走をしているかのように、わき腹が痛い。
頭がくらくらしてきて、もう建前などどうでもいいから抱きかかえて運んでくれ! と言いそうになる寸前、ようやく興津の前にたどり着いた。
やれやれ。
「お待たせしてしまいました」
勝千代が弾んだ息を隠せもせずそういうと、興津は目じりにしわを寄せながら、ほめたたえるような笑顔で頷いた。
「まだ掃除が行き届いておりませんので、見苦しいものもいろいろご覧になられたでしょう」
まるで久々に会う親戚のおっちゃんみたいだな。
勝千代もとっさに笑顔を返し、興津の隣でまじまじとこちらを見ているあざのある男に目を向ける。
朝比奈軍の大将だろう。朝比奈殿の叔父だ。
食い物の恨みで暴れまわったとはとても思えない、ひょろりと線が細く背が高い男だった。




