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真っ赤な血が視界を埋めつくす。
とてつもない臭気が真冬の空気に混ざり、吐き気と同時にガンガンと頭が痛む。
何が状況は把握しているだ。
何が神の如き万能感だ。
確かに遠江側有利に戦況は進んでいる。
だがしかし、実際に槍を人間に突き刺すと、大量の鮮血があふれ大地に滴り落ちるのだ。
敵も味方もない。命が……命がそこで消えて行く。
「勝千代殿。少し空気が悪うございます。下がりましょう」
おそらく血の気が失せて真っ青な顔をしているのだろう。
志郎衛門叔父が気づかわし気に言ってくる。
勝千代は瞬きもせず、自らが導いたこの状況を目に焼き付けた。
戦争は悪だと教育されて育った。
人を殺すなど、鬼か悪魔の所業だと思っていた。
まともな人間であれば、他人を傷つけることなどできるはずがない。通り魔的に数人を手に掛けた男は、マスコミに大きく取り上げられ、その後死刑を宣告された。それについて何ら疑問も感じてはいなかった。
かつての日本には、人が人を殺すのが当たり前の時代があったのだ。
こういう世の中だ。敵を殺すのは罪ではない。
武勲であり、勇敢さの証明であり、身を立てる術でもある。
だが、どこもかしこも赤い。
血の臭いは生臭く、臓物の臭いは肥溜め以上の悪臭で、美しくも、華々しくも、幼い子供が夢見るような英雄譚的なものでもなかった。
今こそはっきりとわかる。人間も動物なのだ。
しかも、飛び切り凶悪凶暴な。
勝千代は大量の血を吸ってもなお黒々とした冬の大地をじっと見つめ続けた。
これを罪というのなら、日本に住むすべての人間は犯罪人の子だ。
怒声を上げながら敵を屠り、誇らしげに槍を掲げてまた大声で叫ぶ。
ああ、人間とはかくも野蛮で凶悪な生き物なのか。
こんな時でも、冷静な目が自軍の趨勢を見ている。
血まみれの男たちの怒声の最中、遠くで聞こえる勝鬨の声。
出陣や、勝千代を見送る際の訓練されたものではない、魂からの雄たけびだ。
肌で感じるのは、ゴオゴオと鳴る風の音。
足の裏から大地が震えるような振動も伝わってくる。
鼓膜がキーンと詰まったような音をたて、そのはざまに聞こえるのが、「えいえいおー」とう勝鬨の声。
「……やりましたぞ」
文官である志郎衛門叔父は、基本的に刀や槍を持って戦いに直接参加しない。
それでも、味方の軍勢が勝鬨を上げ、勝利を収めたのだと興奮した風に笑みを浮かべる。
「ああ、朝比奈軍も」
曳馬城の櫓の上に三本の旗が翻る。今川家のものと、井伊家のものと、朝比奈家のものだ。
それを目にして味方は歓喜の声をあげ、敵の表情は絶望の淵に突き落とされる。
櫓に旗が上がったという事は、この戦に結末がついたのだ。
勝千代は詰めていた息を大きく吐き出した。
同時に、どうしようもない血なまぐささが鼻腔に入り込み、すっぱいものが胃からせりあがってきそうになる。
だがここで吐くわけにはいかない。皆がこちらを見ている。
福島家の兵たちも、そのほかの国人たちも。
どっと地面が湧くような歓声が上がった。
櫓の上に、複数名の男たちの姿が見えたのだ。
遠くで判別しづらいが、興津と井伊殿の事だけははっきりと見てとれた。
興津が一歩前に出て、軍配を振るような仕草を見せる。
勝千代の見えている範囲の味方が喜びの雄たけびを上げ、敵は手に持っていた武器をその場に投げ捨てて逃走し始めた。
そうだ。
三河側の引き口はあけてあるから、急ぐんだ。
敵に向ってそんな激励に似たものを覚え、小さく首を振ってそれを振り払う。
敵も味方も等しく人だという感覚は、ここでは異端だ。
「風が冷たくなってまいりました。本陣まで下がりましょう。入城できるようになるまでには時間がかかりますので」
つまり、曳馬城の中はまだ、あちらこちらに死体が転がり、血みどろの凄惨な有様だという事だろう。
血なまぐさい戦いの現実を目の当たりにしたからと言って、勝千代が危険なほど戦場に近づいたわけではない。
周囲には敵はおらず、味方ばかりの安全圏だ。
まあ、たった四歳の童子なのだから、誰もそのことに文句は言うまい。
だが、そう言っていられるのも幼いうちだけだ。
武家の嫡男である以上、そのうち自ら槍を振るわねばならない日が来る。
できるのだろうか。
自問する。
この手で敵の喉笛を突き、腹を切り裂く? そんな罪深い事がはたして。
「勝千代殿?」
勝ち戦の興奮も冷めやらぬ表情で、志郎衛門叔父が勝千代の顔を覗き込む。
いくら察しの良い叔父でも、かつての常識との齟齬について理解してくれるわけもなく、純粋に今の状況を祝着至極、見事な勝利だと思っているのだろう。
「いいえ。なんでもありません」
心配そうに見られて、首を振る。
時間の猶予があるのがむしろ、死地までのカウントダウンのようで。
これまでは早く成長して、皆の迷惑にならないようにしたいと思っていたのに、その日が来るのが心底恐ろしくなった。
「かまいませんので、曳馬城の方へ参りましょう」
勝千代は、青ざめた唇を笑みの形に歪めた。
頑張って口角をあげてみたが、泣いているように見えたのかもしれない。
志郎衛門叔父がそっと勝千代の背中に手を添わす。
これが現実。
勝千代が選んだ道だ。
目を逸らすわけにはいかない。




