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その後は何事もなく朝を迎え、まだ明けきらない早朝から軍は始動していた。
勝千代の周囲は静かだが、漂ってくる空気が騒めいている。
今日は陣を引き払い、再び曳馬にむかって行軍を開始するのだ。
志郎衛門叔父も戻ってきていて、福島家の出立の準備に追われている。
叔父がこれまでどこに行っていたかと言うと、掛川城に戻っていた。
例の親子はそちらで取り調べを受けているらしく、叔父は立ち合いを希望し受け入れられた。
本来であれば、被害者の身内ということで外されるのだろうが、職務柄志郎衛門叔父以上の適任者がおらず、相談役という形で実際に尋問にも参加したらしい。
進捗については聞いていない。聞いてほしくないという雰囲気もあったし、必要であれば話すだろうと信頼もしていた。
おそらく勝千代にとって、楽しい話ではないだろう。
覚悟だけはしておくべきだ。
すっかり日が昇り、大軍が再び動き始める。
のっそりと身じろぎするかのように、徐々に前に進む。
少し小高い場所からその様子を見下ろし、勝千代は、豆粒ほどの大きさの総大将・興津の背中に目を凝らした。
夕べの話を思い出す。
こちらも、楽しい話ではない。
だが、叔父に伝えねばならない。
父や叔父たちにとって、兄がどのような立ち位置にいたのか想像でしかないが、今の勝千代同様に、大切に見守られていただろう。
だが、今川家の若君だということで、少し距離があったのではないか。
心情的なものではなく、物理的なものだ。
それゆえに異変に気づけず、毒を含ませ続けられていたのだとすれば、おそらく後悔などと言う言葉では済まないはずだ。
想像してみる。
父が、兄の死の真相を知ったら、どういう行動に出るか。
ぶわりと首筋の毛が逆立つ。
前線に旅立つ父を見送った時以上に、足元が危うく感じた。
「勝千代殿」
志郎衛門叔父が呼びに来た。
そろそろ出立するのだろう。
その顔を見返して、疲労からか表情に覇気がなく、顔色もあまりよくないのを見てとる。
「叔父上」
状況的に、少し休めとは言えない。
更には、己も似たような顔色だという自覚もあった。
「お話しておかねばならないことがあります」
「……昨夜の件ですね」
勝千代の口から言うからと、逢坂老らに口止めをしていた。
だが、興津が尋ねてきたと報告はしていたのだろう。
「はい」
「道すがら、お伺いしましょう」
叔父の顔をまともに見ながら話ができるか不安だったので、少し安堵しながら頷く。
往路以上にゆっくりと、馬上の行軍は進む。
話をする時間はたっぷりある。
だが、いざ話すといっても、何と言えばいいのか迷う。
相手が父でないだけまだましだが、兄が死んだその時にも駿府にいたであろう叔父が、どういう反応をするか……
「今川館のことでしょうか」
言いあぐねていると、背後から疲れた声でそう言われた。
はっとして顔を上げると、一気に十歳も年を取ったかのような表情の志郎衛門叔父が勝千代を見下ろしていた。
「こちらにも、お話せねばならないことがあります」
まさか、少年たちが隠し持っていた毒が、兄を殺したかもしれないと察したのか?
いやそうなら、兄の名前が出てきたはずだ。
「あの子が懐に潜めていた毒は、今川館のとある方から預かったものだという事です」
さあッと全身から血の気が下がる。
「……とある方?」
まさか、と思う。
御台様だろうか。勝千代を狙っている北条と縁が深い御屋形様の御母上だろうか、それとも……
「御屋形様?」
いや、違うといってくれ。
勝千代によく似ている男の顔を思い浮かべる。
病身で、青白くやつれていた御屋形様は、それほどの悪意を秘めているようには見えなかった。
いや、悪意すらない?
仮にも実の息子である勝千代を殺しても、何の呵責もないと?
「勝千代殿」
ぎゅっと肘のあたりを握られた。
「違います。違いますから」
何度もそう繰り返されるまで、自身の腕がぶるぶると震えていることに気づいていなかった。
「御屋形様ではありません」
はっと息をつぐ。
呼吸すら止めていたらしく、空気を吸い込むなり激しく心臓が脈打つのを感じる。
「後藤という御伽衆です」
御伽衆?
「……誰の?」
御伽衆ということは、誰かの側に親密に付き従っている者のはずだ。
その者が、久野にチン毒を渡した?
目的は?
「冗談交じりに、邪魔なものはこれで始末すれば良いと言われただけで、具体的に暗殺を示唆されたわけではないそうです」
そんな甘い言い訳があるか。
勝千代があまりにも動揺していたから、気を使ってくれたのだろう。
「……すいません」
小さな声で謝罪して、改めて呼吸を整える。
深く腹の奥まで息を吸い込む。
真冬の冷たい空気が一気に入り込み、肺がチクチクと痛む。
パカパカと穏やかな蹄の音と、人工物などなない自然の風景と視界に納め、たてがみに細かく飾りを編み込まれた馬の首筋に掌を置く。
動物の高い体温が指先を温め、しばらく深呼吸を繰り返していくうちに、心が落ち着いてくる。
「……続けてください」
心の準備はできた。
よし来い。
たとえ勝千代を殺そうとしているのが実の親で、双子の兄もその毒牙にかかったのだとしても、怯んではいけない。
今の勝千代は、福島家の嫡男だ。
父と呼べるのは、髭もじゃの愛情過多なあの人だけだ。
万が一御屋形様が勝千代たち兄弟を殺そうとしたのなら、理由があるはずだ。
たとえばそれが、福島家の勢力を危惧しての事なら、もういっそ、今川家から離反してもいいかもしれない。
父の武勇があれば、きっとどこでも生きていける。
おそらく叔父たちもついてきてくれるだろう。
家臣のいくらかも。
皆でどこか別の国で、一からやり直すのもいいかもしれない。
 





 
  
 