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冬嵐記  作者: 槐
第八章

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233/308

38-4

 距離的には、掛川と曳馬との丁度中間付近に軍はいる。

 ゆっくり動く竜のごとくに、だが確実に距離は詰まっている。

 それでも、事が起こってしまった後に即座に何かができるものではなかった、

 全員で一気に駆け抜ける、いわゆる秀吉の大返しのような事は、実質不可能だ。

 後続のことを何も考えずに行くとしても、そもそも騎馬の数は少ないし、重い鎧を身にまとい、更に長槍、刀や弓などを手で抱えたまま走るのは難しいというしかない。

 とはいえ、中国と京のように遠距離なわけではないので、身軽であれば数時間で状況の詳細を知ることは可能だった、

 いや可能かという以前の問題で、実際に興津の本陣まで井伊殿が駆けつけてきていた。

 状況を知らせる書簡を出すのとほぼ同時に、自身も出立したのだろう。


 丁度勝千代が身支度を終え、叔父が握り締めていた井伊殿からの書簡に目を通しているときに、その到着が告げられた。

 井伊殿はご丁寧に、興津に送るのとは別に福島家に書簡を送ってきており、そこには言外に、次の手への相談が込められていた。

 勝千代たち福島家の者たちは急ぎ、興津の本陣へと向かうことにした。


 本日宿借りをしていた家屋を出た瞬間に、何とも言えない興奮状態と、じわじわ鳥肌が立つような雰囲気を感じた。

 まだ日が昇ったばかりの早朝。周囲は既に明るくなりかけているが、冷えた空気がまだ夜の匂いを残している刻限だ。

 普通であれば、まだ眠っている者もいるであろう、静かな夜明け。

 だが周囲は既に起き出しており、井伊殿の到着に浮足立っている。


「お、お待ちください!」

 誰かに木から降ろしてもらったらしいAB少年が、よれよれの風情で近づいてきた。

 興津の陣に入る寸前だったので、警戒した者たちの目が一斉に少年たちに注がれる。

 さすがに気が立った大人の厳しい視線に怯んだようだが、叔父と一緒に本陣に入ろうとしている勝千代を見て、ゴクリとつばを飲み込み胸を張る。

「我らも……」

「身なりを整えて、顔でも洗ってから出直して来るがよい」

 冷やかに切り捨てたのは、誠九郎叔父だ。

「そこの童子が行くのであれば、小姓である我らも……」

 なおも言いつのる彼らは、何をもって自身の行動が許容されると考えたのだろう。

 ここは、彼らのホームである国人領主のテリトリー内ではなく、今川の総大将の本陣なのだ。


「おお! 勝千代殿!」

 騒ぎという程の事になっているわけではない。だが、人目を引きすぎている。

 どうしたものかと迷っているうちに、フットワークの軽い総大将が御自ら様子を見に来た……というわけではなく、厠の方から来たから、その戻りに丁度行き会った形なのだろう。


「井伊殿がいらしたとお伺いしました」

 志郎衛門叔父が待ちきれない風にそう問いかけると、興津は大きく頷いた。

「夜中に出て、随分と急いできたようです。湯漬けを用意させましたので、ひと息ついていらっしゃるでしょう」

 井伊殿たちが朝食を食べている間に、興津も身支度をしていた、というわけだろう。

 そう言われてみれば、勝千代も厠に行きたい気分になってきた。

 空気を読んで、口にはしないが。


 総大将の姿が目に入ると、男たちが一斉に居住まいを正す。

 その後ろ姿は、なかなか様になってきている。

 勝千代たちも後に続き、何故か少年ABもまた、どさくさに紛れてちゃかりと同行していた。

 本陣の中を歩いてまっすぐに進むと、夜が明けたのにまだ篝火を焚いた場所に到着する。

 そこには床几がいくつか並んでいて、見覚えのある面々が座っていた。

 井伊殿たちだ。

 特に戦塵にまみれているような雰囲気ではなく、ちょっと遠乗りに出てきました、と言った気軽な感じだ。

 彼らもまた、勝千代たちの到着に気づき、はっとしたように背筋を伸ばした。


「早くに申し訳ない」

 立ち上がった井伊殿が、こちらに向かって丁寧に一礼した。

「いや、御苦労さまにございます」

 志郎衛門叔父がそう答え、同じく丁寧に頭を下げる。

 井伊殿は手に持っていたお椀を隣の者に渡し、大股にこちらに近づいてきた。

 そして勝千代の側までくると、やおら片膝をつき、首を垂れる。まるで従順の礼を尽くすかのように。

 急に跪かれた事に驚き、慌てて両手を差し伸べると、勝千代のその小さな手を井伊殿はぎゅっと押し抱くように握った。

「御教授頂きました策ですが、少々薬が効きすぎたようです」

「井伊殿」

「今後のことをご相談に上がり申した」

「わかりましたから、とりあえず立ってください」

 周囲の目を気にして小声になって、握られた手を引くようにして立ち上がらせようとすると、井伊殿は食わせ者なところなど微塵もうかがわせない、人の好さげな微笑みを浮かべた。

「いや、久々に血沸き踊る勝ち戦に御座いました」

「戦端など開かれなかったでしょう」

「戦わずして勝つとはこうものなのですな」


 勝千代はまじまじと自身の手を握りしめたままの中年男を見下ろした。

 朝比奈軍が牧野を討ち、それは深刻なダメージを曳馬の連中に与えただろう。

 遠江へ深く切り込んでくる可能性は随分と減ったとみていいと思う。

 西三河が今川と組んだかもしれない……そのおそれがより強くなり、動くに動けない状況なのだ。

 なるほど、強いものと戦い続け、力こそすべての世で辛酸を舐めてきた井伊殿にとって、するりと決まった謀略戦に目からうろこと言ったところなのだろう。

「まだ完全に封じたとまではいえません」

「牧野が討ち取られ、かえって動きが止まったように思います」

 動きが止まった? 撤退の準備でも始めているかと思っていたが。

「これまでは小規模な略奪部隊や忍びの偵察など、精力的に動いていたのですが、今は

不気味なほどの沈黙を保っています」

「撤退する気配は?」

「今のところはありません」

 それはまた厄介な展開になってきたな。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 小姓たちが諍いの片割れである福島に預けられる非常識な処分の理由が疑問(赤穂浪士が吉良家に預けられるようなもの)通常第三者に預けられ事実上の軟禁状態にされるはずなのに、当事者に預けられそ…
[気になる点] 家格ゆえに罰することができないタイプの悪ガキならともかく大した出でもない主への悪意を隠さない元服済みの小姓を処分しない理由が分からない。 殺すかどうかはともかく側に置くこと自体がリスク…
[気になる点] 少年ab斬られればいいのに。こーゆうヘイト高いやつ長くひっぱって生かしておくのよく見るけどどーなんだろーな。早く退場してほしい
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