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すべてが順調に……進んでいるわけではない。
どうしてもトラブルに巻き込まれがちな厠への道中。
勝千代はさてどうしたものかと首を傾けていた。
いや、戦況が悪くなっているとか、そういうことではない。
これだけの大所帯ともなると、いろいろな人間がいて、中には命がけの戦に四歳児が混ざっているのが気に食わない者もいるのだ。
相手は勝千代を福島家の子供とは知っていたが、それが何だと思っているらしい。敵意のこもった目で睨み据えられ、子供の遊びじゃないのだから「おっかさんのおっぱいでもしゃぶってろ」と、どう考えてもひらがな変換しかできなさそうな頭の悪い罵倒を受けてしまった。
定番の悪口ではあるのだろう。
だが、勝千代の「おっかさん」といえば父が溺愛していたという最初の娘、一の姫だ。
言葉でそう言われた事があるわけではないが、側付きたちの中には母をずいぶんと惜しむ者が多く、つまりはそれだけ家中からも愛される存在だった。
生みの母ではあるが、まったく記憶にない相手なので、勝千代にとってはどうでもいいとまではいわないが、特にそこが沸点になることはない。
だが勝千代に付いている者たちは、若くして亡くなった美しい(かどうかは知らない)姫への冒涜を、許しがたく思う者が多かった。
真っ先に動いたのは、導火線が極短な谷だ。同時に三浦も最寄りの相手の胸ぐらをつかんでいた。
こういうの、ほんとうに勘弁してほしい。
喧嘩というのか? いやそんなお遊びじみたものではない。
戦に向かう男たちは血気盛んに過ぎ、ささいな諍いがあっという間に流血沙汰になりかねない。
止めねば、と踏み出そうとした足は、地面に着かなかった。
誰かに襟首を引っ張られたのだ。
もちろん、勝千代に手が届くところに見知らぬ誰かがいるはずもない。
「ぐえ」と妙な音が出るほど強く後方に引きずられ、この遠慮なさ、さては二木もどきがいるな、と頭の片隅で思ったとたんに、目の前に石礫が飛んできた。
寸前まで鼻先があった場所を、豪速球で横切ったのは、赤子の手の大きさ程の石だ。
たわいもない、ただちょっと脅してやろうという悪戯心なのだろう。悪気がないとは言わないが、目くじらを立てるほどでもない。
そう、勝千代が四歳児でなければ。
石礫が飛んで来た位置も悪かった。丁度顔のど真ん中だ。投げたほうは、頬を掠める程度に加減をしたつもりかもしれないが、いかんせん小柄な幼児だ。頭の位置はアンバランスによく動き、しかも前に足を踏み出そうとしていたところだった。
「……あぶのうございましたな」
ぶらん、と両足が宙に浮いている。
そんな、襟首をつかまれた猫のような体勢だったのはほんの数秒だ。
「興津殿」
「いや、どうか常のように興津とお呼び下され」
道々野宿ではなく、その日の近場の町や村の大きな屋敷を借り上げ、主だった者たちはそこで休めるように心配りをしていた。
軍は膨れ上がっているが、急ごしらえだったので、将らが休む場所や水回りの位置はかぶっているところも多い。
興津が福島と同じ村に滞在することが多いのは、偶然ではなく、弥太郎に予後の診察してもらうためでもあった。
と言う訳で、厠の近くで興津に会うのはなにもおかしな話ではない。
だが、全軍の総大将を目前にして震え上がったのは、ちょっかいを掛けてきた悪たれどもだ。
毛色の変わった子犬に石を投げたら、虎が出てきたようなものだった。
「庄屋に餅と干し柿をもらいました。江坂殿にお渡ししようと思うていたのですが、丁度よい」
すい、と興津がその場で片膝を落とした。いつものように。
ざわり、と空気が揺れる。
それはそうだ。大軍の総司令官として、その身分に相応しい格式高い装束を着た興津が、紺色の地味な直垂小僧に膝をついたのだ。
ちょっとは考えてほしい。
いつものように、とはいかないのだ。
だがそれをここで言っても「生意気よ」と言われるのが関の山なので、あえてなにも気づいていないふりをしてニコリと笑った。
「ありがとうございます」
「……少し擦り傷になっていますな」
近づけた顔をまじまじと見つめられ、丸い顔にわかりやすく不興の色を浮かべる。
擦り傷と言われ首を傾けると、ようやく鼻がひりひりと痛み始めた。
先ほど石を投げられた時か。無事躱せたと思っていたのだが。
興津はじろりと悪たれたちを見回した。
叱りつけたわけではない。だが、真っ青になった若い奴らは脱兎のごとく逃げ出していく。
「……ひりひりします」
「触らぬ方がよろしいですよ」
鏡もないし、身分の鼻先など見れるわけもないので、触って確かめようとしたら止められた。
「ああいう輩には関わり合いにならない事です」
ああいう、って……どこぞの国人領主の縁者だろうに。
勝千代は苦笑するにとどめ、そう言えばこの男も、母の事を知っているのだろうと思い当たった。
叔父たちにはちょっと聞きにくい雰囲気だが、第三者である興津にならかまわないのではないか。
そんな事を考えながら、並んで河原のほうへ歩いていく。
時間がたつほどに、擦り傷は痛み始める。
血は出ていないようだが、消毒などしたほうがいいのだろうか。
この時代、もちろん絆創膏などはない。
弥太郎におかしな色合いの塗り薬をべったり付けられる様を想像して、またちょっとテンションが下がった。




