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真っ先に感じたのが、「怖い」という感情だ。
大声で喚き、怒り心頭の表情で腕を振り回しているのは、岡部二郎。
中の人が初めて本格的に目にした、完全武装の武将である。
武骨な兜は赤く、横に張り出した脇立の飾りが牛の角のようだ。頬当ての金物がぎらりと光り、猛々しい、武将としての岡部がそこに居る。
足を止めそうになったのは一瞬。
勝千代は腹の底に力を込め、まっすぐに歩を進めた。
「岡部殿」
勝千代の声など、張りもなく、通りもせず、舌足らずで。
戦場を難なく突き抜ける武人の怒声に比べれば、すぐにかき消されてしまうような貧弱なものだったが……
「どうされましたか」
やけにすんなりと、相手に届いた。
「勝千代殿!」
がばっと全身でこちらに向きなおり、これだけ離れているのに耳が痛くなるほどの大声で名前を呼ばれる。
兜と頬当てで陰になって、こちらを射抜く三白眼がなおのこと獣じみて見えた。
「これは一体どういうことか?!」
食い気味に、畳みかけるように怒鳴られ、やはり恐ろしさが沸き上がってくる。
しかしここで引くわけにはいかない。
勝千代の背後には、無防備に眠る父とその配下たちがいるのだ。
「それはこちらがお伺いしたい」
至近距離だったらビクついてしまったかもしれないが、幸いにも二人の間には適度な距離がある。
勝千代は意図的にゆっくりと、舌足らずにならないよう言葉を続けた。
「今の状況で、総大将たる岡部殿が、なぜこちらにいらっしゃるのでしょう」
問題児相手と一緒だ。ここで目をそらしたら負けなのだ。
「何か、確認したいことでも?」
岡部の手は、勝千代が見た最初から太刀の柄を握り締めている。
その背後の男たちも、ひとり残らず臨戦態勢だ。
対して、かがり火のそばにいるこちら側の人間は二人。岡部は味方だと思っているからだろう、太刀に手をかけることもなく、とまどった表情をするだけだ。
まるで張り詰めた糸の端を握り締めているような感覚だった。
この糸が切れれば、真っ先にあの二人が死ぬだろう。
そしてそのままの勢いでこちらまで駆けてくる。数秒も掛かるまい。
岡部たちはあの太刀を振りかぶり、勝千代を殺そうとする。
そして、無抵抗な父たちも手にかける。
これまでほんの少しだけ、違うのではないか、という躊躇があった。
医者の手配やその他もろもろ、客としてもてなしてくれたのは確かだからだ。
まあもっとも、理由は勝千代ではなく父だろう。当初は今川家の前線指揮官まで殺すつもりはなかったのかもしれない。
だが、今の岡部が止まるだろうか。
かがり火のそばの二人を殺し、勝千代を殺し、今目覚めている皆を殺すだろう。
ここまでやって、眠り込んでいる父だけを残すだろうか。
いいや、全員の口を塞ぐ。村の襲撃を含め、なにもかも無かったことにするはずだ。
どんどんどん! どんどんどん! と一定のリズムで太鼓の音がする。
岡部がちっと舌打ちし、ぎろりと勝千代を睨みつける。
明確に敵だとわかれば、やるべきことはひとつだけだ。
ここを死守する。
父たちを守るため、一歩も引くわけにはいかない。
岡部が苛立っている理由は明白だ。
勝千代が生きているから。眠り込んでいる父たちを殺すのは、もっと簡単な仕事のはずだったからだ。
このタイミングでのサンカ衆の襲撃も、予期せぬ出来事だったのだろう。
曲輪のどこかが破られたのか、戦戟の音が明らかに近づいてきている。
「行かなくてもよいのですか?」
意図的にゆっくりと問いかけた。
その間も、陣太鼓らしい音が鳴り続けている。
「こちらのことは、お気遣いなく」
「……勝千代殿は」
岡部は唸るような声で何かを言いかけ、続く言葉を飲み込んだ。
勝千代が、有無を言わさずにっこりと笑ったから。
「やるべきことを、なさってください」
煽ったつもりはない。
まず自分の城を、家中の者を守るのが先だろう? そう言ったつもりだった。
しかし岡部は、この距離でも聞こえるほどギリギリと奥歯を鳴らし、なお一層の殺気を振りまき始めたのだ。
まずいかもしれない。
かがり火のそばにいた二人が、ようやく気付いたようにじりじりと後ずさる。
勝千代も逃げ出したかったが、これ以上下がるわけにはいかない。
まさに一触即発、何かのきっかけがあれば、岡部は抜刀しこちらに切りかかっていただろう。
しかしそうなる寸前、勝千代の視界を遮ったのは大きな背中だった。
段蔵かと思った。
いや、それよりもっと巨躯の、そびえたつような背中だ。
ガコン!と地響きを伴う音がして、その太い腕が床に突き立てたのは長大な槍の柄。
「……岡部ぇっ!」
鼓膜が一瞬仕事を放棄した。
それほど、至近距離からの怒声は凄まじかった。
「貴様あぁぁっ」
……父だ。
無事目を覚ましたのか、という安堵よりも、両耳を塞ぎたい衝動のほうが強かった。




