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いい年をしたオヤジのくせにはしゃぎ過ぎだ。
とはいえ、娯楽の少ない時代だ。こういう事にはワクワクしてしまうのだろう。
勝千代は表面上は苦笑しながらも、内心では「笑えない」と深刻に思っていた。
この作戦で人が死ぬだろう。戦はきれいごとでは済まない。
勝つために手段を選ばない大林のように、より容易いほうへ気持ちが流れて大惨事を巻き起こすことだけは避けなければならない。
ずしりと重いものを鳩尾に抱えながら、何でもない顔を保つ。
ここで勝千代が躊躇するのは違うと思う。
完全に無血ではない事だけは確かだが、毒で大量殺人をしでかした奴に、ご近所の城を好き勝手させるわけにはいかない。
実際に人を殺すのは、最前線に立つ者で、大将格が刀を抜くことはまずない。
とはいえ、すべての責任はトップが取るものだ。
今回の作戦がうまくいかなければ、井伊殿が全責任を負うだろう。
ここから大きく負けるようなことはないだろうが、たとえ大勝したとしても、動くなという指示があるにもかかわらず、勝手な事をしたと責められるだろう。
特に井伊殿の立場がまずい。
井伊谷は今川との戦で敗れてから、立場としては属国のようなものだ。
臣従するようにと言われても、なかなか首を縦には振らないらしい。
今回の事が、よくない結果にならなければいいのだが。
「もう一通の事もお話しておきます」
勝千代が書いた書簡は二通。ひとつは井伊殿にも言った通り、前線にいる朝比奈家の者たちへ宛てたもの。そしてもう一通は……
「どうぞ」
今しがた書き終えた、まだ墨の濡れた色が残っている書簡を、再び土井経由で井伊殿に渡す。
今回の肝は、西三河の動きだ。
逃げようとする者たちを見逃しただけでは弱い。
そこで牧野の最大のライバルとされる松平に粉を掛けてみることにしたのだ。
彼らは、東西三河の代表格として、長年角を突き合わせてきたという。
双方にとって今川の侵攻は青天の霹靂かもしれないが、さっさと尻尾を振って見せた東三河へ思う事もあるだろう。
力を合わせて押し返そう! と牧野が声を上げたとしても、今さらだと思われたのではないか。現に松平は曳馬には来ていない。
常識的に考えると、大国である今川と真正面から戦うには、各家の規模はあまりにも小さく、例えるなら今川家と井伊家のように、象と子犬ほどにも勢力差があるのだ。
牧野家が言うように、力を合わせることができれば勝ち目もあったかもしれないが、つい先日まで角を突き合わせてきた彼らにそれは難しかったようだ。
どうして松平の名前が頻繁に出てくるのかと疑問だったのだが、それは松平が関係しているというよりも、巻き込んでしまおうという魂胆からではないかと踏んでいる。
よくいるだろう? 「○○先輩がこう言っていたから……」とか、勝手に人の名前出してくる奴。
おそらくだが、他の西三河の国人領主たちを引き込む口実にされたのだろう。
松平も挙兵したと聞き、「そうだそうだ! 今川許すまじ!」と、槍を持って集まってみれば、まわりは東三河者ばかり……騙されたと感じ、早々に引き上げようとしたのもわかるというものだ。
いや、実際の所はどうなのかなど知らないよ。
逆に松平が牧野を潰すために巧妙に動いたとか、大林が野心のためにやったとか、可能性だけなら無限にあるけれど、今表に出ているどうにも動かせない事実は、ふたつだけ。
松平は来ていない。
曳馬の主力は東三河牧野家。
そこでだ。
鏡如の名前を借りることにした。
あの生臭坊主が持っていた密書の件を匂わせ、どうやら牧野は松平に泥をかぶらせようとしているようだ、と「親切」に教えてあげるのだ。
嘘じゃない。本当の事だろう?
鏡如が持っていた密書には、東西三河の力を合わせ今川侵略を阻止するというような名目で、いついつに砦を襲う、と書かれていた。
それが今川の手に渡ったというだけで、牧野にも松平にも大きな痛手だろう。
あれが偽物か本物かなどというのはたいした問題ではない。
今川が、三河に攻め入る恰好の口実を手に入れたという事が重要だ。
松平へ送る書簡には、もちろんそんな無礼なことは書かない。
季節の挨拶から始まり、隣人の迷惑行為に困っている。早々に立ち去っていただきたいのだが、松平殿はいかが思われるかと。
まあちょっと慇懃無礼にも受け取れる文面だが、いつかこれが表に出ないとも限らないので、丁寧に、丁寧に書いたよ。
「……砦を襲う刻限を記した密書とは?」
「すでに今川館にありますよ。鏡如という僧侶が隠し持っていました」
「松平殿が関わっているとお思いで?」
勝千代はきょとんと眼を見開いて、深刻な表情の井伊殿を見上げた。
あまりにも表情が硬く、頬のあたりにぐっと窪みが出来ている。
「どちらでも」
井伊殿が何を心配しているのかわからず、首を傾ける。
「ここでいくら話し合ったとしても、確実な事はわかりません。もし違うのであれば、まあ個人的にはですが、お会いしてみたい方ですし、そういう企みをなさる方で、曳馬の人々を毒で沈めたことに関わり合いがあるのでしたら、ちょっと会うのは嫌ですね」
「厳しい方ですよ」
井伊殿がぽつりと言った。
「己にも周囲にも厳しい方です」
「御存知なのですね」
「はい」
勝千代はたいして意外に思いもせず、頷き返した。
近い場所だし、知己だとしてもおかしくはない。
「どういう方ですか」
良い人ならいいなぁというのが、勝千代の願望だ。
家康が生まれる家系の、祖父か曾祖父かそのあたりの人物だ。できれば立派な人であってほしい。
井伊殿は勝千代の問いかけに言い淀み、しばらく息を詰めてから長く吐き出した。
「御家のために必要であれば、悪鬼にもなれる方です」
返ってきたのは、願望とはかけ離れた、予想もしていなかったものだった。
 





 
  
 