36-5
「勝千代殿はいらっしゃるだろうか」
陣幕の裏側から井伊殿の声がして、ちらりと空を見るともう太陽は中天を過ぎている。
いい時間帯だ。そろそろ来るのではと思っていた。
分刻みの社会で価値観を育てた勝千代は、どうにもこの時代の時間のシステムに馴染めない。
複雑な精密さが芸術とまで言われた時計が、この時代に存在するはずもない。
なので、一分二分三分……いや、十分二十分の感覚のずれならまだ理解はできる。
だがしかし、数時間の誤差ですら誰も気にしないそうで、朝の出仕に日が昇りきり、上司が来るよりも遅く着くのは問題だが、定時に数時間遅れて悪気もない奴もいるそうなのだ。
なお不可解な事に、それを気にする者すらほとんどいないという。
そんな天国みたいなところがあるのか! と遅刻常習者ならいいそうだ。
勝千代が育った時代では一分遅刻しただけでペナルティもあった。たとえば遅刻三回でトイレ掃除とか小テストとかね。
日が昇れば朝。太陽がおおよそ中天で昼。日が沈んでから夜だ。
その時の時刻を頭に思い浮かべて考えるとわかってくれると思うのだが、季節によってかなりずれがある。真冬の今は日が沈むのは早いし、太陽が再び登ってくるのは遅い。
グリニジのことなどまったく知りもしない連中なりに、時間の把握はあるようだが、勝千代の感覚には合わない。
大抵の者は、空のお日様をみて「大体」「おおよそ」の体感で判断するらしい。
なんだよ、季節によって時刻が違うって。
そりゃあ時間の把握がしずらいよ。
幸いにも井伊殿は良心的なころあいに尋ねて来てくれて、無意味にストレスを感じずに済んだ。
勝千代が呼んだのだ。
掛川へ発つ前に話しておきたいことがある、と言って。
呼びつけるなど何様と、どこぞの誰かに詰られそうだが、勘弁してほしい。
井伊軍の本陣まで結構距離があるのだ。この格好で出歩くとさすがに風邪をひく。
「失礼いたす」
そう声がして、顔を上げると同時に、パサリと陣幕がめくられた。
立ち上がって出迎えた勝千代を見て、井伊殿の目が丸くなる。
何を考えたかわかるよ。着ぶくれしていない姿ははじめて見せるかもしれない。
「……お寒うはございませぬか」
どうしてみんな、第一声がそれなんだろう。
着ぶくれを抗議して、せめて最後の挨拶だけはきちんとした格好を、と側付きたちに命じた所、あちらこちらから心配された。
そんなに病弱に見えるのだろうか。
まあ確かに、駿府にいた頃より食が細くなっていると指摘されたばかりだし、少しはやつれて見えるのかもしれない。
「書き物をしておりました。手元が見えずらいので、着替えました」
「ほう」
井伊殿はちらりと、草の上にあるには場違いにがっちりとした書き物机に視線を向けた。
「どうぞ」
書き終えたものをすっと井伊殿の方へずらすと、いぶかしげな表情をされ、土井が丁寧な仕草で手渡すと、真意を問うように勝千代の顔を再び見つめた。
「……これは?」
「前線の朝比奈軍に送る密書です」
「は?」
「我らは掛川に向かわなければなりません。対処は井伊殿にお頼みしたい」
「……何を」
「失礼、直ぐに仕上げますので。とりあえず、先にお読みになってください」
勝千代はそう言いおいて、再び文机に向った。
こんな時代だが、幸いにも紙や墨に困るような身分ではない。
源九郎叔父が行軍に持ってきていた普通の墨に普通の紙だが、それすら極めて貴重なものだと知っている。
紙を駄目にしたくはないので、慎重に書き進めていると、ものすごくじっと見つめられていることに気づいた。
普段から、側付きたちが勝千代の挙動をずっと見守っているので、人の視線には無頓着になった気がしていた。だが、井伊殿からの視線はそれの比ではないほど強烈で、はっと息を飲み顔を上げると、丁度谷が身じろぐのが見えた。
駄目だから。刀から手をはなしなさい。
井伊殿は顔を上げた勝千代が、己の背後にいる護衛を見咎めたことに気づいたのだろう。
ふうと長く息を吐いて、「いやはや」と首を振った。
「聞きしに勝るお方だ。参りました」
どういう意味か理解できず首を傾けると、「では失礼して読ませていただきます」とまだ墨も乾いていない広げた状態の書簡に目を落とす。
勝千代はしばらくその顔を見つめてから、再び文字を書くことに集中した。
「それでは、朝比奈軍へは、西三河勢は見逃し、東三河には容赦するなと」
「容赦するなというのではなくて」
勝千代は興奮気味に身を乗り出してきた井伊殿に、若干上半身を引きながら身体の前で手を振った。
「あちらには焦りと懐疑心がありあす。そこに火をつけてやります」
「なるほど! 尻に火をつけ蹴飛ばしてやるわけですな!! なるほどなるほど!!」
ちょ、ちょっと興奮しすぎではないか?
志郎衛門叔父が珍しく苦笑の表情だ。
源九郎叔父は相変わらずの無表情だが、誠九郎叔父は底意地の悪そうな顔でニヤニヤしている。
勝千代はまず、総攻めの日を曳馬の大林の耳に漏れ聞こえるように細工した。
もちろん興津はまだ掛川で待機しているので、今川家としての曳馬奪還戦はまだ先のことだ。
それでも、国人領主たちの軍が意気を挙げ、これから動くぞと言う様子を見せたら、その噂を真実のように思うだろう。
ちなみにこれは、奥平と約束した、半分の兵を自領に引き揚げさせる動きで、もちろん曳馬へ攻め込む予定はない。
そのタイミングで、じり貧で一抜けを考えている西三河の者たちを城から落ち延びさせる手引きをするのだ。
典型的な流言流布の手法だが、パニックになっているとバイアスがかかってどうしても固定概念が崩せなくなるものだ。
西三河が裏切り、このままだと崩れると思わせると成功だ。
籠城しても、今川の本隊が来れば持たないと分っているはず。
なんにせよ、まだ数が少ない今なら戦えると遠江に打って出るか、三河に引き返すか。
そこで朝比奈が西三河と結託するような素振りを見せたらどう思う?
軍隊とは、個人の意識で動くものではない。逃げ出した西三河の者たちを見逃したのが、朝比奈の、つまり今川の意思だと考えるのではないか。
東西から挟み撃ちのような状況になれば、東三河に生き延びる目は少ない。
 





 
  
 