36-3
本格的に、ちょっともういい加減にしてほしかった。
相手は「おそらく」駿府。今川館にいる「誰か」。
そのあたりの事をはっきりさせないと、勝千代のためだけではなく、弥太郎はじめ周囲の者たちの命に係わる。
なんだよ、あのアクロバット。サーカスか。シルクドソレイユか。
もはや尋常に相手をするだけ危険だ。できれば敵対したくない。すぐにもお引き取り願いたい。
無理無理、マジで無理。絶対に無理。
弥太郎が押されるだろうとか、風魔忍びが信用できないとかではもちろんない。
そもそも貴重な人材を、そういうことで浪費するべきではないのに。
「弥太郎」
しれっと何事もなかったような顔で戻ってきた男に、声をかける。
「ちょっとそこに座ろうか」
「……はい?」
不思議そうな表情でこちらを見て、首を傾ける。
彼があまりにも人畜無害な風貌だから、いつもはつい何でもない事として流してしまう。
だがしかし、これまでも度々刺客に襲われ、そのたびに彼ら風魔忍びが防いでくれた。
見た目は普通のサラリーマン風。市役所の窓口でニコニコとしていそうな男だが、変わらぬその笑みのまま、平然と血を浴びるのを知っている。
「座りなさい」
「はあ」
勝千代は、再び例の足踏み台に腰掛け、側にある丁度よさげな岩を指さした。
弥太郎はしきりに首をかしげながら示された岩に座り、なおもきょとんと勝千代を見ている。
「報告でしたら、始末がつきましてから……」
「ちがう」
惚けた男の表情が、ほんの少し動いた。
その視線が、よく見ていないと分らないほどに左右に動き、「……では、なにか」と、叱られることを待つ子供のような声色でつぶやく。
いや別に怒っているわけではない。
しかしそれをどう伝えていいものか迷っているうちに、弥太郎の表情が初めて見るものに変わった。
叱られると確信した犬のような目だ。ちなみに勝千代は愛犬家なので、犬と言うのは侮辱の意味ではない。
下手な言い訳が口をついて出てきそうになったが、こういう時は素直に本題に入る方がいい。
「このままだといつか被害が出る」
「必ずお守りいたします」
いや、それでは駄目なのだ。
「これまではただ、何も聞かずに守られているだけだったが、少し動きたい」
しおしおとしていた弥太郎の顔に、一瞬で生気が戻った。
きらきらと目が輝き、口角がにゅっと上がる。
「……なるほど?」
急に元気になったな。
「私の周りを嗅ぎまわっているのは何か所だ」
気を引き締めながら言葉を待つ。
弥太郎は少し思案するように顎をさすり、「そうですねぇ」と、まるで天気の話をするように言った。
「今川館のほうから、複数」
ふ、複数?
「三河方面からは流派としては三つ」
ああ……うん。
弥太郎は指を折りながら数えて行って、七つ目を数えてから思案した。
まさか京からも来ているとは思わなかった。
これはあれだ、御台様の御実家方面だろう。
「あとは日向屋の副番頭」
佐吉はなぁ、敵か味方かで言えば味方の部類に入るのか? 兵糧の都合もつけてくれたし。
「………もっとも大きなところは北条です」
「北条だと!」
これまで黙って話を聞いていた叔父たちが、やおら大声を出した。
北条は御屋形様の従兄が今当主をしているはず。
「今、明確に私の命を狙っているのは?」
「北条です」
ぎりり、とものすごく背筋が凍るような音がして、視線をそちらに向けてみると、歯ぎしりをしているのは誠九郎叔父だった。
「今川館の方は、一時期きな臭いものも来ましたが、最近はとんと見かけません。三河からは、前回のもの以来なしのつぶて。北条は所帯が大きく、忍びの数にも余裕がありますから、手を変え品を変え人を替え、どんどんと送り込まれてきています」
風魔忍びか。
勝千代はじっと弥太郎の顔を見つめて、小さく頷き返され「そうか」とつぶやく。
「それからもう一つ色物が」
色物? 色物ってなんだ?
「三岳城に舞い戻っていったものがいます」
三岳城、奥平だな。もちろん、忍びが城に逃げ込んだからといって、即「奥平が敵!」というわけにはいかない。
ただ、心象的にそれが大きなマイナスとなり、不信の種になることは確かだ。
更に雷鳴のようなゴロゴロという音がして、今度は何かと思うと、雷ではなく誠九郎叔父の唸り声だった。
やはり地べたに頬を押し付けられるという恥辱は流せないものなのだろう。
顔色が熟したように真っ赤になっている。血圧は大丈夫か。
「……てやる」
やがてぶつぶつと怨嗟の言葉をつぶやき始め、「殺してやる」はまだ穏便な方。「その首をひねりつぶしてやる」「はらわたに手を突っ込んで……」などと、どんどん恐ろし気な方向に進んでいく。
とめてやれと相方の源九郎叔父の方を見るが、火傷の痕も痛々しい叔父はまったく気にもしておらず、つまりこういうことは日常茶飯事なのだろう。
「曳馬の方からは」
「来ておりますね。もっぱら諜報ですが」
それはどうだろう。雑多な寄せ集めの連合軍だ。どこかの将の首を取れば陣が乱れることはわかっているだろう。
「こちらからは出しているのか?」
「勝千代様をお守りするのが本分です。様子見程度ですね」
よし、それなら方向性は決まった。
「曳馬に入っている主だった将を調べるのにどれぐらいかかる?」
「詳細な報告が必要でしょうか」
「いいや。どの家の誰が来ているのかを知りたい」
「ざっとでよろしいのでしたら一晩で」
ものすごく軽い調子で言われて、思わずまじまじと弥太郎の顔を見返してしまった。
「一晩?」
さすがにそれは盛っただろう。一晩といえば今夜半も過ぎているから、数時間以内ということだぞ。
「ええ一晩」
弥太郎はこっくりと首を上下させ、更には莞爾と笑った。




