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その夜はもう移動はやめておこうという事になった。
野営するのははじめてではない。
あまりいい記憶がないのは、そのあと高熱を出して倒れる羽目になったからだろう。
そう言えばあの時は父がいたなと、燃え上がる焚火を見ながらしんみりと思う。
岡部の城からの下山途中、ずっと抱きかかえられての移動、抱きかかえられての就寝だった。
雪山だからという理由はあったにせよ、あれで随分心強かったし、父は体温が高いひとなので、雪エリアを抜けてからはそれなりに暖もとれた。
そんな父は今どうしているだろう。こことは違い、雪が多い地域だという。寒さに震えていないだろうか。
しばらく父の髭面を思い出していたが、あの人は頑丈そうだから病気より怪我だな、と思い直した。
むしろ風邪をひく心配をするべきなのは、自分自身のほうだろう。
食事は前回と全く同じで、少量の野菜を煮込んだ味噌汁に玄米ご飯を入れたものだった。
ほぼ味噌汁の汁だけに玄米と言う感じだったが、皆で同じものを食べるのはなかなか美味しい。
そもそもこの時代には、現代で言うところの和食などというものはなく、こういう場所だと尚の事、身分の上下なく同じものを食べる。
寝る前には厠だ。古人の知恵からか、誰もがそのあたりで用を足すことはない。
ずいぶん遠くまで連れていかれたが、強烈な匂いですぐにそれとわかった。
地面にただ穴があけられ、細い板を二枚渡しただけの簡易トイレだ。深めに穴を掘って用を足し、たまったら埋めるのだそうだ。
エコだ。……そう思わなければやっていられないほど臭いが。
実際に、二千人もの排泄物は土にかえり、そのうちこの地を豊かにするだろう。
何もない丘陵、もっさりと木々に覆われた場所だが、来年ぐらいには山菜が豊作かもしれない。
用を足す間、ずっと数人に見られているのがアレだったが、勝千代は小柄なので、罷り間違って穴に滑り落ちてしまう事を思えば……まあ。
それ以上のコメントは差し控えたい。
それにしても臭かった。
福島家の本陣には、軍議をしたときのまま幕がかかり、勝千代はその一番奥まったところで休むようにと言われた。
寒い事は寒いが、真っ暗闇の木立の中で眠るよりはずっといい。
そもそも布団がないので、寒いときは誰かとくっついて眠るものだが、勝千代の身分がそれに邪魔をする。
仕方がないので、雪だるまのように着ぶくれした上から、更にありあわせの着物をたっぷりかけられて、その日は野外での就寝だ。
なんだか圧死する夢を見そうだ。
硬い地面の寝床ということで、背中が痛くなりそうだと思うだろう?
何度も言うが、綿の布団などないこの時代、屋内で寝たとしても板間の上だ。
畳があればマットレスになるが、たいていは板間の上に直接寝床を作る。
着物を敷いたとしても硬さは伝わってくる。
柔らかな草の上に横になる方が、背骨に優しいとはじめて知った。
確かに、夜の屋外は闇が深い。
ただそれも、灯明を消した屋内の暗さとは雲泥の差だ。
長雨が上がり、雲の晴れ間に星空が見える。
残念ながら月はないが、それでも、暗い室内よりは明るかった。
丁度木々の切れ間になっているので、広く夜の空が見える。
じっくりと見上げて、見覚えのある星座を幾つも発見して、改めてここが地球であり、北半球であり、おそらく日本なのだろうと得心した。
オリオン座の三ツ星が並んでいる。
子供の頃に親に教えてもらって以来、折に触れて探してしまう星座だ。
唐突に、己が今ひとりなのだという孤独感にさいなまれた。
福島勝千代の叔父や、面倒を見てくれる者たちは側にいるが、かつての己、高校教師をしていた懐かしい中年男を知るものは誰もいない。
ぽつんと取り残されたような、迷子にでもなったかのような気がした。
迷子か。そうだな、確かに時代の迷子だ。
こういう眠れない夜は、温かいものでも飲み、厠に行けば気分も変わる。
いつもはそうしているのだが……あそこにはできるだけ行きたくない。
かといって、夜の散歩としゃれこむ自由さもなかった。
「勝千代様」
弥太郎に名前を呼ばれる。
「十名です」
二千もの味方に囲まれた本陣は安全だと思うだろう?
いや、不特定多数の多数の部分が増えたら、不特定も増えるんだよ。
間者は潜り込み放題、防ぐ方も大忙し。
敵か敵じゃないかを判別するより、敵も味方もまとめて遠ざけたほうが安全らしい。
勝千代が一人寝なのはそういう理由でもある。
いいなぁ雑魚寝。あったかいんだろうなぁ……あこがれるなぁ。
そんな事を考えながら上半身を起こし、弥太郎の姿を探す。
いないわけがないのに姿が見えず、きょろきょろしていると、がさりと茂みが揺れる音がした。
意図的に出したのでない限り、弥太郎はそういう物音を立てない。
素早く寝床を這い出して、四つん這いのまま陣幕の下に潜り込んだ。
こういう時はまず退避。そう言い聞かせられている。
やばい、着ぶくれしすぎていて思うように動けない。
転がり出た先には、叔父たちがいた。
寝支度を始めた所だったらしく、陣幕の下から転がってきた勝千代に驚いた顔をして、すぐにその引きつった表情に気づいてくれた。
志郎衛門叔父の手がさっと伸びてきて、着ぶくれてもなお小さな童子をすくい上げる。
源九郎叔父と誠九郎叔父は、近くに置いていたらしい刀を握っていた。
ガサガサと茂みが揺れる音、枝が折れる音、更には、足音にしては小さいが、何者かが動き回る音。
「……忍びか」
「三人逃しました。警戒を続けてください」
弥太郎の声がまたどこからかする。
その者が飛び出していたのは、幕の上からだった。アクロバットが過ぎる身体能力で頭上を舞い、覆面をした顔が確かにこちらを向くのを見た。
源九郎叔父が刀を抜き、誠九郎叔父が志郎衛門叔父と巨大な肉壁となって勝千代を挟む。
まるで蝙蝠のようなその忍びは、同じような軌道で飛んできた別の忍びと交差して移動していった。
こういう、いかにも「忍者」な姿をみて、テンションを上げる時期は過ぎた。
勝千代を見た視線の切り付けるような冷たさ。どうやっても殺すのだという執念が見て取れて、肝が冷える。
命を狙われていることに、慣れる日が来るとは思えない。
 





 
  
 