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軍議が終わり、各々席を立とうとした。
勝千代はお尻と内ももが痛くて素早くは立ち上がれず、志郎衛門叔父に腕を引いてもらってやっと足踏み台から尻を浮かせた。
お尻の下に敷いていたのは、誠九郎叔父上の陣羽織だ。
今さらだが、こんなものの上に腰を下ろしてよかったのだろうか。
誠九郎叔父は、寸前まで尻に敷いていたものを平気な顔をして羽織りなおした。
予備だって言ってたのに。
かなり立派なしつらえの品物なので、荒い作りの踏み台にどこか引っかけていないといいのだが。
礼を言おうと顔を見上げると、浅黒く日焼けした頬に擦り傷があるのに気づく。
先程奥平の配下に押さえつけられ、地面で擦ったのだろう。
改めて不愉快な気持ちがこみあげてきたが、吐き出すのはぐっとこらえた。
こんなところで軽々しく悪口なんぞ言えない。
「若君!」
その奥平が大きな声で呼びかけてくるものだから、なお一層苛立ちが募る。
舌打ちのひとつでもしてやりたかったのだが、帰りかけていた国人領主たちが足を止め、何事かと振り返ってこちらを見ているので、かろうじて取り澄ました顔を崩さずに済んだ。
「ああ、奥平殿」
勝千代が嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開く前に、志郎衛門叔父が返事した。
「申し訳ないが、勝千代殿はすぐに高天神城まで戻らねばなりません」
それほど急ぐような用事はないはずだが……背後に立つ双子からの無言の圧に、素直に口を閉ざしておく。
そうだよね。ここで嫌味は駄目だよね。
気がつけば夜もかなり深くなっている。
今から戻るとなると、足元が暗いのでゆっくり進むことになるだろうから、着くのは明け方近くになるかもしれない。
痛む尻の事を考えながら、内心うんざりしていた。
やはりこの時代、問題になるのは移動に要する時間だ。
情報の伝達だけではなく、軍が動くのにもものすごく時間がかかるのだ。
体験して身に染みたのが、五、六人の移動であれば個人で行くのと同じ早さも可能だが、人数が倍になればかかる時間も倍は見ておくべきだ。
何しろ、馬に乗っているのはごく限られた少数。過半数は徒歩、歩兵である。
食事もするし、食べれば出すものもあるし、寝どこも必要だし。
それが千人、万人規模ともなればどれだけ大変か。
奥平の言葉通り、兵の半数が入れ替え制になってしまったが、むしろその移動で疲弊してしまうのではと気に掛かる。
「若君!」
もう一度呼びかけられて、そのあまりにも真に迫った懇願ぶりに、つい奥平の方を見てしまった。
この男が叔父たちに言い掛かりに近い罪状を付きつけ、腹を切らせようとしたのをこの目で見た。
誠九郎叔父は地面に押さえつけられ、源九郎叔父も後ろ手に腕をひねり上げられていた。
決定的なところまでは行っていなかったが、この男は味方であるはずの福島家に難癖をつけ、思う存分いたぶろうとしていたのだ。
この手の男は、何度でも同じことをする傾向が高い。
事情はどうであれ、そうする手段と意思とがあるという事だ。
「……何か」
謝罪するなら直接叔父たちへどうぞ。目の前に鼻息荒く睨んでいるご本人たちがいるから。
そう思いながら視線を返すと、奥平はその場に片膝をつき、懐に手を突っ込んだ。
「見ていただきたいものがございます。こちらを」
刃物でも出てくるのではと警戒していたのだが、彼が取り出したのは小さな結び文だった。
この男の言う事は信用ならない。
万が一敵味方に分かれたとしても、興津や井伊殿のような人間の話なら聞こうという気にもなるが、この男の上っ面の良い喋り方がどうにも好きになれなかった。
これは以前からの悪い癖なのだが、どうしようもない保護者や上司の言葉はまともには聞かず、「はいはい」と右から左に流してしまうのだ。
結び文は志郎衛門叔父が受け取って、針などの危険物が潜められていない事を確かめてから勝千代の手に渡った。
正直、読みたくない。
長雨のせいか、奥平の汗のせいか、若干紙がしなっとしている。
もしここが私的な場で、国人領主たちの目がなければ、叔父に丸投げで代読をお願いしていたかもしれない。
ため息をつきながら、広げられた文を篝火の明かりがある方に向ける。
文は紙質も悪く、小さく結ばれていたので皺々になっているが、書かれている文字はかなり端正な美しい手だった。
一読して、眉を寄せる。
もう一度目で文面をなぞり、最後に宛名の部分を見る。
心配そうな叔父たちを見て、何事かと興味津々の井伊殿たちをチラ見して。
「……何か良くない事が?」
志郎衛門叔父の問いかけに、半笑いで首を傾ける。
「亀千代という名で間違いありませんよね?」
誰が、とまでは言わない。
幼名なので、そろそろ元服する時期だし、名前は変わっているだろう。
それなのにこの名で記してきたのは、己が福島家の長子だという自負からか。
福島亀千代。
いやいや、母親の姓である中村じゃないの、と突っ込みを入れたい。
そういえば、この件もあったなぁと、遠い目をしてしまった。




