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「何をしておるのだ!」
奥平は鋭く叱責したが、勝千代を見下ろす男の冷や汗は止まらない。
おそらく御屋形様の姿を遠目にでも目にしたことがあるのだろう。勝千代自身、普段から鏡を見るようなことがないのでそれほど気にしてはいないのだが、よく似ているというのは知っている。
「……下がれ」
勝千代は、まっすぐに冷や汗男の目を見返し、静かに、しかし聞き逃しようのない怒りを滲ませて言った。
「刀を置き、膝をつけ」
「佐久間!」
勝千代の命令と、奥平の怒声とが同時に発せられ、ふらり、と男の頭部が揺れた。
常識的に考えれば、何の権限もない四歳児の命令よりも、直接の主君か上官かである奥平の指示に従うだろう。
だがしかし、佐久間と呼ばれたその男の様子から、思いのほか彼の中での「御屋形様」が大きな存在なのだとわかる。
「いったい何を……」
ずかずかと近寄ってきた奥平は、佐久間の肩をつかもうとして、ようやく勝千代の存在に気づいた。
はっと息を飲み、何を言うべきか忘れたように驚愕の表情で凍り付く。
勝千代は、叔父の腕に抱きかかえられたまま……という、首の筋を違えそうな体勢で、頑張って奥平の顔を見上げた。
背はそれほど高くない。そうでなければ、見上げるために更に筋を酷使せざるを得なかっただろう。
「ずいぶんと一方的な物言いですね」
相手が無遠慮にこちらを見ているので、負けじとじっと見上げて言葉を発する。
「私たちの方からも、今のこの時期に五百もの兵を隠し持っていた理由をお聞かせ願いたい」
自分でもどうかと思う程、あどけなく可愛らしい声色で、言っている言葉は結構辛辣だ。
奥平は唖然とした表情のまま勝千代を見つめ、やがて小声で「それは」とつぶやいた。
にらめっこじゃなんだから、そろそろその凝視、やめてもらってもいいだろうか。
勝千代は叔父の腕を軽くタップした。
渋々と強い拘束が緩み、ようやく首の筋の酷使という問題から解き放たれる。
「か、隠し持っていたなどと、そのような事は」
動揺を隠せない奥平の、口ごもるようなそぶりに、ここは逃してはならないと追撃する。
「ですが、曳馬が落ちたという知らせを聞いても身をひそめたまま。小規模ですが三河の武士がたびたびこのあたりに出没しているにもかかわらず、何の手立ても講じませんでしたね?」
「そっ、それは」
「福島家は掛川に行かねばなりませんので、その間に三河武士たちがこのあたり一帯を荒らしまわらぬよう、井伊殿らにお声がけさせていただきました。ですが……」
ぱちぱちと薪が燃える音がする。
その小さな音すら拾えるほどに、周囲は静まり返り、誰もが固唾をのんでいる。
「今は手を取り合って三河を押し返すべき時に、何故隠れていらしたのですか?」
こういう時はね、声を大きくして正論を言い切った方が勝つんだよ。
奥平が強引に叔父たちを排除しようとしたように、もっともらしく主張するのだ。
勝千代の声は物理的に大きいわけではなかったが、その場にいる誰もの胸に一石を投じた。
実際、「何故」と思っている者が多かった、というのもあるだろう。
「何を仰いますか! 隠れてなど居りませぬ。これは御屋形様より頂いた大切なお役目」
奥平はよく通る声で一気にそう言って、それにより自信を取り戻したように大きく息を吸って胸を張った。
「御幼少ゆえにお判りいただけないのもむりはありませぬ。ご親族の情も御座いましょう。ですが、ここは奥平にお任せ下され。若君をこのような場所に引き出すような慮外者どもは……若君?」
誰も気づかぬうちに、三笠城には兵が配備されていた。
普通五百もの兵が動けば、周辺の誰かの目に留まる。
他所に違和感を抱かせないうちにそれだけの数を整えるには、相当にこっそりと、徐々に兵数を増やしていくしかない。
つまりは、かなり以前から計画され準備されていた、という事だ。
「……なるほど」
勝千代は二度三度と瞬きをして、奥平からさっと視線を逸らせた。
ぐるりと周囲を見回し、白っぽい装束の武士で八割がた囲まれていることを目で確認する。
奥平の兵は五百。うまく動かせばここにいる全員を殺せる数だ。
「曳馬が落ちる事を事前に知っていたのですね」
ぎょっとしたのは、奥平だけではなかった。
叔父たちや、何故かこの場にいる井伊殿、更にはほかならぬ奥平の配下の者たちでさえも、勝千代の言葉にショックを受けた表情をしている。
「なっ、何を!……いくら若君とはいえ、かような侮辱はっ!」
「奥平どの」
勝千代は強めの口調で奥平の激高をいなした。
「何も叛意があったなどと言うているわけではありません」
気分はさながら、ひらひらと赤い布を振る闘牛士?
うまく操らないと、五百の敵に対処しなくてはならなくなる。
「三笠に兵を置くよう命じた何者か、ここで福島家に瑕疵を負わせ、うまくいけば足止めもできると踏んだ何者かについて話しています」
これが井伊の息子のように、わかりやすい相手ならよかったのだが、頭を使うタイプの奥平に対するには、もうひとひねり欲しいところ。
とりあえず今は、奥平の連れてきた兵との距離をあける事。
叔父たちに、地べたに押さえつけられるという屈辱的な状態から脱してもらう事だ。




