35-2
詳しい事情を聞く前に、井伊勢を除けばおおよそ五十の騎馬は本陣に向って移動を始めた。
それに先立って、志郎衛門叔父が勝千代を抱えたまま馬を駆けさせる。
このような夜間、足元も定かではないのにこれは危険だ。
だが、先導する逢坂老の真後ろから騎馬を駆る者たちに躊躇いはない。
細いながらもここは街道で、長雨にもかかわらず、踏みしめられた道が硬かったのが良かったのかもしれない。
大きなトラブルもなく篝火まで直進し、五十メートルほどまで近づいてようやく、勝千代の目にも本陣の形状がわかってきた。
特に布を張った陣があるわけでも、丸太などで柵をこしらえているわけでもない。
ただ、細い棒のようなものが等間隔に何本か立っていて、それを中心に雑兵たちが団子のように集まっている。
叔父は眠っているだろうと言っていたが、誰もが武具をつけたまま不安そうな顔で一方向を見ていた。
これだけの騎馬が近づいてくるのに、ほとんどの者がこちらには顔も向けない。
一行は少し手前で馬を降りた。
目を細めてじっと見ていると、そこにいるのが福島軍だけではない事に気づく。
青や紺の着物を主体とし、華美な武具などは誰も身に着けていない武骨な福島勢に対して、暗すぎてはっきり見えないものの、白を基調としたその部隊の様相は明らかに真逆で洗練されている。
「どうされた、責任を取ることもできぬのか」
人間の気質は、声によってある程度わかるものだ。
どこからか聞こえてくるその声は、おそらくは誰の耳にも「厭味ったらしい」と聞こえるだろう。
「御屋形様の許可なく軍を動かすなど、腹を切って詫びても済まぬ大問題! 潔く身を処されるがよろしかろう」
うわ、もしかしなくても、叔父たちに腹を切れと言っている?
勝千代は盛大なる脅しだろうと解釈したが、志郎衛門叔父をはじめ周囲の者たちの空気がザワリと剣呑なものに変わった。
いったん深呼吸をした志郎衛門叔父が、声の主たちがいる明るい篝火の元へと歩を進めた。
その後ろには、険しい表情をした福島家の面々が、ざっざと足並みをそろえて付き従っている。
「これはどういうことか、奥平殿」
おそらく奥平は、志郎衛門叔父がこうやって登場することも予測していたのだろう。
まったく驚いた様子もなくこちらを見て、片方の眉を器用に跳ね上げる。
「……ずいぶんと遅いお着きで。どなたかと密談でも?」
みんな忘れているみたいだから言っておくけど、勝千代はまだダルマのように着ぶくれさせられて、志郎衛門叔父に抱っこ状態だからね。
明らかに異様だろうに、誰も突っ込みを入れないのは、それに気づかないほどその場が緊迫していたのと、比較的明るいところに居る彼らには、闇から湧いて出たような志郎衛門叔父の姿がよく見えていなかったのだと思う。
奥平殿はいかにもやり手の銀行員か公務員、しかもけっこうな上役の……という雰囲気をしていて、見るからに能力高めのナイスミドルだった。
整えられた口髭と、きれいに撫でつけられた髪には、三分の一ほど白髪が混じっているが、端正に整った容貌が、彼を年寄りというよりも渋めで知的な男のように見せている。
だが残念。その薄い唇と、ひん曲げた角度がいかにも胡散臭い。
総じて、油断ならない男という印象だった。
「福島家には、掛川城へ向かうようにと御指示が出ていたはず。それにもかかわらずこのようなところに居るのは何故か……きちんと説明してくださるのでしょうな?」
いつかは来ると分っていた質問なので、どう答えるかのシミュレーションはしてきた。
だがしかし、奥平殿の配下なのだろう白っぽい装束の男たちが、双子の叔父たちをその場で押さえつけ、誠九郎叔父に至っては土の上で呻いているのを見てしまえば、今の状況を己がどれだけ楽観視していたかわかってしまう。
「もちろん御命令には従いますよ。ですが、こちらにはこちらの事情が」
「そんなことはどうでもよい」
志郎衛門叔父の言葉を遮って、奥平殿が手を上げる。
彼の部下たちが志郎衛門叔父もまた拘束しようと迫ってくる。
「御屋形様の御下知に従わぬというのであれば……わかっているでしょう? 江坂殿」
物理的に退けることは簡単だろう。
それはおそらく、すでに拘束されている叔父たちが今からその気になっても、だ。
だがしかし、このタイミングで出された「御屋形様」と言う言葉に、反抗してはならないのではないか、と躊躇したのがわかる。
もがいていた誠九郎叔父が唸るのを止め、腕をねじり上げられている源九郎叔父も動きを止める。
寄ってきた男たちが志郎衛門叔父の腕をつかもうとして、そこで初めて勝千代の存在に気づいた。
同時に、叔父もそのことを思い出したのだろう、ぱっとかばうように身体の向きを変える。
「何をしている! 早く刀を取り上げるのだ!!」
「……は、はい」
きっと奥平からは勝千代は見えないのだろう。
苛立たし気に急かされて、ためらいを捨てて再び手が伸びてきて……
「やめよ」
勝千代にはわかっていた。
志郎衛門叔父の影で、逢坂老が、勝千代の側付きや護衛たちが、叔父の配下の者たちが刀を抜こうと身構えたのを。
もちろんそちらへの制止の言葉だったのだが、奥平配下のその男も、何故か飲まれたように動きを止めて、篝火の明かりにはっきりとわかるほどの冷や汗を流し始めた。
 





 
  
 