35-1
寒い。
大手門が大きく開け放たれた瞬間、吹き込んできた風の冷たさに震えた。
物理的な寒さだろうか。それとも、心情的なものだろうか。
勝千代はぶ厚い小袖やら陣羽織やらに幾重にも「梱包」され、叔父の懐に抱きかかえられていた。
まるでワレモノ注意の小荷物扱いだが……仕方がない。とてもじゃないが、馬にまたがることができる状態じゃないし。
「勝千代様御出立っ!」
いやいや逢坂。この状況でそれはやめてほしい。
見てみろよ、井伊の若い奴ら。いかにも馬鹿にしきったあの顔は意図的に作ったものか? いや、本心から勝千代を見下している。
でもね、こっちは虚弱な四歳児なの。二十歳近い健康優良児じゃないんだよ。
ヘタすりゃ自分の子供と言っても良い年ごろの童子に向かって大人げなさすぎるだろう。
ぶつぶつとそんな事を思いながら、風に吹きつけられた瞬間、嫌な予感がした。
最近は熱を出しても数日で回復しているが、それでも普通の子供よりはその頻度は高く、わりとちょっとしたきっかけで寝込んでしまう。
「寒いですか?」
叔父に尋ねられ、首を振る。
寒いが耐えられないほどではない。
ただ、後で熱を出しそうだなぁとは思っている。
道中ウトウトしてしまったのは、体調が悪いわけではなく、道がなだらかで揺れが心地よかったからだ。
危機感がないよな。我ながら。
こんなところで寝ると、どうなるかなどわかりきってるのに。
ぱっちり目が覚めた時には全身バキバキに強張っていて、ついでに喉も痛かった。
戻ったら弥太郎に薬湯作ってもらおう。……いやまて、かなりあの薬湯に毒されていないか? そのうちアレがないと駄目だとか思ってしまいそうだな。
そんな、どうでもいいことを考えながら周囲を見回す。
弥太郎の知らせを受けたのがすでにもう午後で、城を出た時はまだ明るかったが、本陣があるという曳馬城手前の丘陵地まで到着したころには、周囲はすっかり真っ暗になっていた。
最初、並走する騎馬が掲げる松明の明かりが強すぎて、暗がりの中にともる篝火に気づかなかった。
やがて、こちらの松明が丸く円を描くような合図をすると、遠くからもそれにこたえるように明かりが動く。
「逢坂」
叔父がいくらか警戒した口調で逢坂老を呼んだ。
確認するまでもなく、老の姿は勝千代の視界の内にいたので、彼が暗がりの中馬の首を巡らせ、懐中電灯を下から照らした時のようにおどろおどろしい面相でこちらを振り向くのが見て取れた。
「勝千代殿を頼む。少々問題があるようだ」
「畏まりました」
二人の様子にそこまでの緊迫感はないが、厄介事が起こっているのは確かなようだ。
「叔父上」
ここまで来て遠ざけられてはかなわない。
勝千代が声を出すと、眠っていると思っていたのだろう、志郎衛門叔父は少し驚いたようにこちらを向いた。
「仲間外れは良くないと思います」
「……起きられましたか」
「すいません、揺れが心地よくて」
身体はかなり痛んだが、それを気づかせないように軽く伸びをして。
「到着したようですね」
改めて、暗がりの向こう側に地味に点在している明かりに目を凝らした。
この時代の光源は、実にわびしいものだ。
部屋を昼間のように明るくする照明はもちろん、眩いLEDライトも、夜空を照らす強い指向性のライトもない。
オレンジ色の松明の明かりでさえ目を焼くほどに、夜は尋常ではなく暗いのだ。
かつてと同じなのは、夜空に浮かぶ月と、むしろ地上よりも明度の高い夜空。
そのダークブルーに墨を落としたような色合いが、なおのこと地上の闇を黒々と不気味で恐ろし気なものにしている。
「あれが本陣ですか?」
「はい。右手に陣を張っているのが福島家です」
指さされてもよくわからないが、丘の高い位置に幅広く布陣している「らしい」のは見て取れる。
しかしそれは、点在する篝火の光でわかる程度のもので、軍勢がそこにいるという物々しい雰囲気ではなかった。
「夜なので皆休んでいます。夕べはずっと雨でしたので、ろくに眠れずにいたでしょう」
「屋根のある場所はないのですか?」
「この近くには村も何もないので」
雨は数日間続いていた。ずっと野宿なのはさすがにつらいだろう。
だが、疲れ切って眠り込んでいては、夜襲を受けたら怖い。
たしか桶狭間の戦いがそんな風ではなかったか? 雨で今川の軍勢が休んでいるときに、織田軍が少数で奇襲をかけたのだ。
「夜番の責任は重大ですね」
「目と耳の利く者に交代で当たらせています」
そんな彼らも、この数日ろくに眠れていないのは同じだろうに。
本当に大丈夫なのだろうかと心配していると、遠くから馬の蹄の音がした。
誰もが耳を済ませ警戒する中、現れたのは指物をつけた伝令兵。冷たい夜の風にパタパタと旗が揺れる音がするだけで、暗すぎてどこの者かわからない。
「江坂志郎衛門さま! 至急本陣へお戻りをっ」
その伝令はズザサササッと膝でスライディングするように這い寄ってきて、なりふり構わず馬上の叔父の足に縋りついた。
松明に照らされた男の顔は蒼白で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「何があった?!」
「せせ誠九郎さまがああああっ」
だらだらと顔面を崩壊させながら、男は本陣にいるはずの叔父の名前を大声で叫んだ。




