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その溜息がこれ見よがしに聞こえたのか、井伊彦次郎はぎゅっと鼻頭にしわをよせて嫌悪の表情を浮かべた。
だが煽るだけで何もしてこないのは、父親にきつく問題を起こすなと言われているからだろう。
福島家側から先に刀を抜いたら、遠慮なく行動に移せると思っているのかもしれない。
「……まったく」
ここは福島の主城だ。脳筋集団の懐深くでそんな事をして、無事に帰れると思っているのだろうか。
勝千代がやれやれと首を振るのを見て、次第に顔を赤く染めていく彼は、どうやら理性よりも感情で動く人物のようだった。
もしこの男が井伊家の嫡男なら、ちょっとご近所付き合いを考えたくなる。
「失礼ですが、彦次郎殿はお幾つですか?」
勝千代はそんな内心をおくびにも出さず、にこにこと朗らかな笑みを浮かべながら尋ねた。
ますます険しい表情になる井伊家の若者たちに、「私は数えで六つになります」と、無邪気な子供の高めの声を心掛けてさらに微笑む。
ふっと唇からこぼれるのは、幼い子供の柔らかな呼気。
「ここは病室の前ですから、お静かになさってください」
―――お前の家じゃないんだぞ。子供のような態度はとるな。
何の脈略もないように見えて、誰にでもわかる明らかな揶揄だった。
彦次郎はカッと耳まで真っ赤にして、赤鬼のような形相で刀に手を伸ばした。
「おのれ!」
お、先に抜くか?
「童子だと思うて大目に見ておればっ!」
「やんちゃをしておられては、御父上に叱られてしまいますよ」
煽ろうとして煽り返されていたら世話ないよね。
勝千代はひょいと肩をすくめ、唇だけで笑って見せた。
赤黒い顔の彦次郎が踏み込んでくるが、まずその前に立ちふさがったのは土井と三浦だ。
「退け!」
馬鹿じゃなかろうか。勝千代を守るのが勤めの彼らが、退くわけがないだろう。
その時、スパン! と勢いよく飯尾がいる部屋の襖が開いた。
「何をしておる!」
「父上っ! このガキが!!」
「彦次郎っ」
雷のような怒声だった。
保護者が来たからここまでかな……と、他人事のように構えていた勝千代ですら飛び上がるほどの、文字通り落雷のような叱責の声。
温和な狸のような、と当初思った印象は完全になくなり、激怒するその様にこちらが叱られたような気になってくる。
だが冷静に考えると、微妙な仲の相手の城に出向くのだから、このような不測の事態を避けるべく、連れて行く者は厳選したはずで……つまりは、多少こちらを試す意味合いもあったのだと思う。
だが、蓋を開けてみれば問題を起こすだけ。福島側は尻尾も見せない。……叱責したくもなるだろう。
しきりに恐縮して見せるその姿に、鷹揚に手を振って気にしていないと答えようとして。
少し離れた位置にいる弥太郎に気づいた。
普段は身近にいるが、こういう場面ではあまり表に出て来ない男だ。
特にその表情が普段と違うわけでもなかったが、彼が意図してその場にいて、こちらの注意を引こうとしているのはわかった。
井伊殿は勝千代の視線を追って弥太郎に目を向けた。そしてその、明らかに武家ではない身なりにいぶかしげな顔をする。
弥太郎は一礼して勝千代の意向を確かめるようにこちらを見てきた。
何か至急伝えなければならない事が起こったのか。
井伊殿に向けて振ろうとしていた手で、弥太郎を手招く。
さて、何があった?
足早に近づいてきた弥太郎は、勝千代の斜め後方に立って、ぐっと顔を寄せてきた。
いつもの嗅ぎなれた薬草の匂いに混じって、何か別の匂いもする。錆びた鉄のような、湿った土のような匂いだ。
これって血臭? ああ嫌だ嫌だ、またトラブルかな。
「三岳城の奥平様が兵を出しました。その数五百」
とっさに頭の中で広げた地図で、井伊谷を見張るような位置にある三岳城を思い出す。
確か、もとは井伊方の城だったが、敗戦と同時に今川に明け渡し、今は奥平某が入っていると聞いている。
だがしかし、あそこに五百もの兵がいたのか?
普通城と言えば、己の領地内に、主に防衛のために建てられるものだが、三岳城の近隣の街といえば井伊谷になり、国境に建てられた出城や砦のように、彼らを見張るために管理されている城だ。
つまり奥平は国人領主としてではなく、今川の将として城番のためにあの城に配されている。動くとすれば、今川館の命令のはずだ。
「向かっているのは本陣です」
弥太郎が五百と言うのなら五百人、兵がいたのだろう。その者たちを引き連れ、曳馬城前を塞いでいる本陣へ向かったのか? 掛川ではなく?
今川館からの通達によると、掛川に兵力を集め、その後に曳馬城を取り戻すという事のはずだったが……三岳城に入っているのは今川方の将のはずなのに、何故福島勢に命じられたように掛川に向かわないのだろう。
今は熟考している時間はない。勝千代はちらりと井伊殿を見上げた。
「飯尾殿から話は聞けましたか?」
「いや、予想より容体が悪いようで……話そうとはするのですが、すぐにまた眠ってしまいました」
だろうね。目をあけている時でさえ、意識がはっきりしているのかすら怪しいから。
「それでは、早急に陣に戻られるのをお勧めします」
「小僧!」
勝千代が言い終えるより先に、井伊の息子が怒鳴り声を上げた。
「よくも父上にそのような口をっ」
ちょっと黙っていようか。
勝千代は露骨に彦次郎の怒りを無視して、まっすぐに井伊殿に視線を返した。
「三岳城の奥平が動きました。数は五百」
「まことですか!」
そう声を上げたのは、井伊殿の後ろから部屋を出てきた志郎衛門叔父だ。
この場の異様な雰囲気に言いたいこともあるはずだが、それもすっかり吹き飛んだのだろう、険しい表情で井伊殿と視線を交わしている。
「あの城に五百もいたと御存知でしたか?」
「近頃やけに出入りが多いなと思うておりましたが」
叔父に尋ねたのだが、返答は井伊殿から戻ってきた。
「……都合がよすぎて嫌な感じがします」
まるで図ったようなタイミングじゃないか?
勝千代はちらりと飯尾の病室を見てから、井伊殿に視線を戻した。




