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井伊殿が高天神城に来た理由は、飯尾に会うためだった。
尋ねたいことがあるのだという。
一日をほぼ寝て過ごし、たまに意識は戻るが重湯を二啜りする程度でまた目を閉じてしまう。そんな状況で話ができるだろうか。
ともあれ、今現在は息をしているのか不安になるほど深い眠りについていて、いつ起きるともわからない。
待たされることは承知の上とのことなので、とりあえずその場は解散することになった。
飯尾が目を覚ますまでの待機場所として明け渡したのは、先ほどまで彼らがいた場所。つまり勝千代の居室までほんの数歩のところだ。
近すぎるので隣室に引き上げるのは止められ、志郎衛門叔父と一緒に破られたという曲輪の壁を見に行くことになった。
歩けるのかって? 無理だよ、無理。
厠に行ったときに見たのだけど、かなり派手かつ広範囲が赤く爛れたようになっている。
特に内ももの部分が酷く、そこに余計な力が入りすぎているのだそうだ。
そんな顔をするなよ逢坂老。
子供の皮膚は薄いんだから、仕方がない。
彼が怪我をさせたのではなく、勝千代自身が望んだことだ。
……かなり痛いのは事実だけど。
その後も自分で歩くと言ったのだけど、却下された。
ナメクジのような歩みに皆を付き合わすわけにもいかないので、甘んじて抱っこ移動を受け入れる。
そういうわけで、叔父との曲輪の壁見学でも山道に悪戦苦闘することはなかった。
「破られたのはあの場所です」
家老米田が指さすのは、壁のくぼんだ部分。丸太を立てて並べてあるだけの簡易なものなので、すでにもう修復済みだ。
だが、丸太というかなり物理的に頑強な壁を破るのは大変だったのではないか。
特にあの場所は尾根に続いているので要警戒場所だったはずで、そこを破ろうとした段階で気づけなかったのは問題だ。
当初は内通者がいるのかもしれないと疑っていたが、なるほど、木が生えたり窪みになっていたりする部分が随所にあって、視界があまりよくない。
敵はかなり念入りな下調べをして攻めてきたようだ。
「堀切を急がせたほうがよいな」
「土橋を渡して曲輪を拡張するという案はどうされますか?」
二人の会話を聞いているだけでかなり興味深い。
城の構造などじっくり見たことも考えたこともないが、いかに攻撃をしのぐかを主眼に置いて作られている。それはそうだ。城は防衛拠点、敵から攻撃を受けることが前提の施設なのだ。
「殿」
一時間ほど経っただろうか、志郎衛門叔父の側付きが小走りに寄ってきた。
丁度堀切の位置や角度について討議していた二人は、はっとしたように口をつぐむ。
議論はかなり白熱していて、勝千代の存在すら眼中になかった。
「飯尾殿が目を覚まされました」
熱中するのはいいけれど、客人の事も忘れていたんじゃないか?
狭い山城なので、戻るのはすぐだ。
勝千代は居室の前で降ろされ、どこにいろとも言われなかった。
叔父は井伊殿とともに飯尾の病室に入っていき、部屋の仕切りの襖は静かに閉ざされた。
飯尾の容体はかなり悪く、長く話すことはできないだろう。
井伊殿の「聞きたいこと」とやらが聞けるといいのだが。
「勝千代殿」
部屋に入る前からじっと穏やかでない凝視を受けていたので、おとなしくこもっていようとしたのだが、そういうわけにもいかなかった。
井伊殿の御子息、彦次郎殿の目は、ちょっと勘弁してほしいほどの憎悪に満ちていて、周囲の井伊家家臣たちもそれに同調しているように見えた。
「はい、何でしょうか」
前に出ようとした逢坂老を制し、はっきりとした口調で言葉を返す。
こういう手合いは無視しても怒るし、怒りに怒りを返しても累乗するだけだし、できる事と言えば現状維持で躱すか、理詰めで有無を言わせず退けるか、井伊殿に出てきてもらうかの三択だ。
一番穏便なのは三番目なので、できるだけ騒ぎが伝わりやすいこの場で対峙するのがベストだろう。
「千代丸殿は残念でしたな」
正直なところ、こんなところで異母兄千代丸の名前が出てくるとは思ってもいなかった。
驚いて目を大きくした勝千代に、彦次郎殿がにやりと唇をひん曲げて笑う。
「腕を切り飛ばしたと噂で聞き申した。いやはや、幼いのに随分と思い切ったことをなさる。さすが血は争えぬと感心致しました」
「無礼であろう!」
真っ先に声を張り上げたのは、意外な事に家老の米田だった。
少々脂ぎった……失礼、テカリのある額の持ち主で、温和な中間管理職といった雰囲気の男なのだが、張り上げた声はさすがに戦国の男、鞭のように鋭く険しかった。
勝千代と言えば、「残念だった」という言葉と「感心した」という言葉の統合性に欠けるところが気になって、どちらを受け取るべきかと暢気な事を考えていた。
ああ、もしかすると「手首程度しか取れず(首が取れず)残念」という意味か?
小首をかしげ思案するその様子に、馬鹿に仕切った様子で鼻を鳴らされる。
こちらを挑発しようとしているのが丸わかりだ。
残念ながらそれに乗ってやるわけにはいかな……待て待て待て!
「逢坂、下がれ」
周囲を一番諫めるべき立場の年長者が、何故先頭に立っていきり立っているのか。
逢坂だけではない。勝千代の側付き、護衛、挙句は米田や城の兵たちまでまとめて激怒の面相で刀の柄に手を置いている。
知らず、ため息がこぼれた。




