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冬嵐記  作者: 槐
第七章

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206/308

34-4

 数日間降り続いた雨は、ゆっくりと小降りになり、三日後の早朝、夜が明ける頃には晴れ間が広がっていた。

 風も収まり、何事もなかったかのように陽光が降り注いでいる。

 心なしか寒さも和らぎ、ほんのかすかだが、春の気配を感じた。


「もう少し身体の重みを尻の方へ」

「……わかった」

 勝千代は、コクコクと首を上下させ、背後にいる逢坂老に背中を寄せた。

 完全にもたれかかるのではなく、骨盤を立たせるようなイメージで、重心は背骨より後ろ? 微妙なバランスが難しい。

 単独での乗馬ではなく、前に乗せてもらっているだけだが、まだ幼い勝千代にはそれでも十分トレーニングになるらしい。

 逢坂老曰く、幼少期から馬に親しみ、その背に乗る感覚を身につけるのは重要な事なのだそうだ。


 これまでにも幾度となく、逢坂家の男たちの乗馬技術を目にしてきた。勝千代の側付きたちもそれなりに熟練しているが、やはり彼らの目から見ても逢坂の技術は特出しているらしい。

 いつか彼らのように馬を駆ってみたい。

 そう思い、ポロリと口にしたところ……号泣されてしまった。

 え、ジジイの泣き顔なんて誰得だよ。

 思いっきり引いてしまったのは勝千代だけではない。

 三浦兄弟をはじめとして、主に駿府詰めだった若い者たちは及び腰だったが、土井や南など、前線経験組はうんうんと頷き、こちらももらい泣きしそうな表情。

 何故だ、と慌てた勝千代に向かって、やおら張り切りだしたのは老本人だ。

 福島家の男子は武芸に優れたものが多いが、今代に入っていろいろと事情があって、誰も老から乗馬を学ぼうとする者はいなかったらしい。

 幸松は? とは聞かなかった。

 あの子の母親は馬廻りの出らしいから、そちらから教育係がついているのかもしれない。


「そうです、膝は常に締め、完全に馬に腰を据えてはなりませぬ」

 重心を尻の方に掛けるのに、座ってはいけないとは……かなりきついぞ。

 太ももで挟んで乗る感じ? うーむ、いまいちコツがつかめない。

「揺れに逆らってなりませぬ、無駄に手足に力がはいっております」

 理屈はわかるのだが、身体がついていかない。

 そろそろ上半身のバランスをとるのも苦しくなってきたころ、「馬影確認!」大手門の見張り台の上から、そんな声が降ってきた。

 周囲の誰も緊張していないので、敵ではないだろう。

 勝千代は無意識のうちに背中を丸め、逢坂老にもたれかかっていた。

 いけないと慌てて背筋を伸ばすが、尻はペタリと馬の背にくっついたままだ。


「勝千代殿!」

 ギギギと例のごとく油を差した方がいい音がして、わずかに開いた隙間から、志郎衛門叔父の声がした。

 タイミングが悪い。馬から降りたはいいものの、がくりと膝が折れた所だった。

 予想していた逢坂老に支えられ、なんとか見苦しいさまを見せずに済んだが、叔父は「具合が悪いのか」としきりに心配そうに顔を覗き込んでくる。

「馬に乗る練習をしていました」

 恥ずかしいので、ちょっと小声で。

「……足が痛いです」

 正確には、太ももの内側……ひりひりと擦り傷のような痛みだ。

 無意識のうちに手でさすっていて、それがよほど間抜けに見えたのか、周囲が「どっ」と湧いた。

 ひどい。


「はじめてお目にかかる」

 ひとしきり笑われるのを我慢して、叔父たちを見上げていると、見知らぬ男が笑いながらそう声をかけてきた。

 勝千代はちょっと首をかしげ、「誰だろう」とその人物を見上げていたのだが、叔父が軽く咳払いをしたのでようやく客人だと察した。

「失礼いたしました。福島勝千代です」

「井伊次郎と申す」

 井伊。

 ぱちくりと目を見開いて、笑いをこらえて唇の端をひくつかせている男を見上げた。

 年のころは四十ぐらい? 四角い顔立ちに、人のよさそうな丸い目。狸を連想させるちょっと丸みを帯びた体格をしている。

 勝千代の知る井伊氏といえば、徳川四天王の井伊直政か、大河ドラマで美人女優が演じていた井伊直虎か、あるいは暗殺された井伊直弼か。

 年代的にそのいずれでもないだろうが、先祖となる人物である可能性はある。

「この度は井伊谷に御警告を頂き、無事火付けを防ぐことができ申した」

「……ああ、はい」

 笑いをこらえた真顔という、なんとも微妙な表情で頭を下げられ、勝千代もまた身体の痛みをこらえながら頭を下げ返す。


 弥太郎や逢坂老からのとりあえずの詰め込み知識によると、井伊家とは、今川が遠江に侵攻する以前は、井伊谷から曳馬あたりまでの一帯を広く支配していた国人領主らしい。敗戦国なので従属扱いだが、いまだに正式に今川家に臣従しているわけではなく、何かと目の敵にされることが多い一族だそうだ。

 故に、勝千代に対していい感情を持っているとは思えず、用心するようにと言われていた。

 だが、正対してみると、なかなか人柄がよさそうな男に見える。

 だからといって、人間の内面までは計れるものではないのだが。


「とりあえず……中へ?」

 どこまで歓待するべきなのかわからず、叔父の顔をちらりと見上げる。

 何故か志郎衛門叔父は両手を前に出しながら近づいてきて、ちょっと待ってお客さんの前だけど、と思うより先にひょいと抱き上げられた。

 膝が生まれたての小鹿みたいにブルブル震えているのが丸わかりだったらしい。

 恥ずかしい。

 勝千代がちらりと井伊殿のほうをうかがい見ると、案の定、唇の端がまたひくついていた。

井伊直平。直虎のひいじいさまですね。桶狭間の三年後、氏真の代まで生きていたとされる人です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] そういや実孫は処罰されてて、それでも自責の念で腹切ろうとしてたんだったなこの人 逢坂老腹切らなくて良かったな 生きてるおかげで、孫(的存在)の成長を見れるんだから お勝ちゃんだけじゃな…
[良い点] ひりついてる状況が続いてたからこういうフフッとなる回は良いですね。急場ばかりだと読んでて慣れるし疲れる、緩急があると適度に息抜きが出来て飽きにくい、そして何より勝千代が歳相応に可愛い。 […
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