34-3
結論を言うと、もし急な雨が降らなければ、とんでもない事になっていた可能性が高い。
あの後、思いつく限りの場所に人を向かわせた。
こちらもそれほどの人数を動かせるわけではないので、多くの場所では警戒を呼び掛けただけだ。
遠いところの事はまだはっきりわかっていないが、少なくとも、ここから一日圏内で向かえる五か所には、高天神城を襲ってきたのと似た風体の者たちが目撃されていたそうだ。
多くの場所で事前に止めることができたのは、降っていた雨が長々と続き、すぐにはやまなかったからだ。
その男たちの目的は、町あるいは城内の誰かを殺害して騒ぎを起こし、すぐに消火できないレベルの火を点ける事。
今の季節は基本的に乾燥した日が多いので、いったん火がついたら消すのは容易ではない。
日時も、おおよそ合わせての行動を指示されていたようで、万が一雨が降っていなければ、とんでもない混乱が方々で巻き起こっていただろう。
布陣している国人領主たちにもこの危惧を伝え、自領のことは彼ら自身に任せている。
勝千代とともに高天神城に残っていた者たちだけでは、とても手が回らないからだ。
襲撃側も人数に限りがあるだろうから、小さな町や村は標的から外されている可能性は高いが、ゼロではないので、やはりそういうところまで目を配れるのはその土地に住むものたちだけだろう。
この時代、たいていの村町には自衛能力がある。よそ者の侵入は目立つ上に、分かりやすく怪しげなので、すでに警戒していたところもあったようだ。
まだ行動を起こしていなくとも、油入れを片手にうろついている男を見かけたら、そりゃあ怪しむ。
閉鎖的な町や村というものに良いイメージはなかったが、それは彼らなりの自衛であり、必然なのだと納得した。
「若」
部屋から軒伝いに滴り落ちる雨を見ていた勝千代に、逢坂老が報告を上げてくる。
「破られた箇所の修復が完了しました」
「……うん」
何事もなく無事元通りになったことにほっと安堵の息を吐く。
たとえ子供だとはいえ、留守を預かった以上、城の責任者は勝千代だ。
破られた曲輪の修復は急務だったし、安易に敵の侵入を許した理由を調べて、今後こういう事が起こらないよう対処しておく必要もある。
「お顔の色が優れませぬな。御具合でも?」
ずっと気になっていた。
あの男たちはどうしてまっすぐに本丸に侵入し、勝千代を狙ってきたのか。
騒ぎを起こすのが目的なら、適度なところに火を点け、適度な者を手に掛ければ済むはずなのだ。
だがしかし、連中は「いたぞ」と言って勝千代に向かってきた。
子供とはいえ護衛の数も多く、手厚く守られていたのに。
もっと簡単に襲える者が、他にもいたはずなのに。
漠然とした不安がずっと胸の内にある。
嫌な予感とでもいうのだろうか、思い出せそうで思い出せない? 気づけそうで気づけない? ……そんな、もやもやとした得体のしれない「何か」があって、それが喉に引っかかった小骨のように気に掛かる。
「失礼いたします」
三浦の兄の方の声がして、丁寧な所作で部屋に入ってくる。
「掛川の興津様より書簡です」
逢坂老に何と答えようかと思案していた勝千代は、振り返ってみた三浦も同じように心配そうな表情をしていることに気づいた。
皆が元気のない勝千代を気にかけている。
被害もほとんどなく敵のたくらみを防げたのだから、もっと喜ぶべきなのだろう。
だが、どうしても気がかりが拭えない。
手渡された書簡を開き、目を落とす。
さっと読み進み、ため息をつく。
「……若?」
勝千代は無言のまま、逢坂老に書簡を手渡した。
老は首をかしげてから、書簡を受け取り、読み始めた。
「五人だそうだ」
ようやく違和感に形が見えてきた。
「掛川城ですら侵入者は五人。おかしくないか」
興津からの知らせによると、掛川城に侵入し油を撒こうとしていたのはたったの五人だというのだ。
他の町でもそうだった。
怪しいと捕えられた者たちはごく少数。他は逃げたのかもしれないと初めは思っていたが、おそらくは違う。
「どうして高天神城だけ三十名近かったのだと思う?」
前線から近いからとか、考えられる要因はなくもないが、それよりも最もあり得る心当たりがある。
勝千代が言葉にしないその結論に、逢坂老も思い当たることがあったのだろう。
興津からの書簡を握る手に力がこもる。
「……まさか」
「鏡如と朝比奈殿の御正室ごとき……と言っては申し訳ないが、あの者たちが企むにはあまりにも事が大きいと思うていた」
駿府だ。
一連の出来事には、駿府にいる何者かの意向が絡んでいる。
三河勢を遠江に攻め込ませたのも、危うく前線の朝比奈軍が壊滅するところだったのも、勝千代の首が再び狙われたことも。
何もかも、とまではいわない。
だが駿府にいる何者かが、多少なりとこの事態を画策し、双方あるいは複数の望みが合致して今の状況になっているのだろう。
想像だが、まだしっかりと服従していない遠江の国人衆を事に当たらせ、三河勢に手ひどくやられることを望んでいたのではないか。
そしておそらく、興津を掛川に置いたのは、最終的には彼に事を収めさせ、三河に好きにさせるつもりはなかった、と言う事なのではないか。
さらに今回の襲撃事件だ。
あの場で勝千代が討たれていたら、後日、それを口実にして三河に攻め入る気でいたに違いない。
東三河も西三河も関係なく、御屋形様の実子を殺したと復讐ののろしを上げる。
先鋒はもちろん父だ。
意図的に遠江から遠ざけられていた父は鬼と化し、無意味な甲斐戦線から即座に帰還、三河の弱小国人領主たちを容赦なく蹂躙していくはずだ。
これで膠着していた三河戦線が一歩前へ進み、駿府は無傷のまま、福島が血を流して今川の版図を広げるという結果になっていただろう。
勝千代はゆっくりと目を閉じて、深呼吸する。
「……ひどい話だ」
思うとおりに事が動くのは、さぞかし楽しいだろう。
指し手自身は、ただ盤面にある駒の動きを見ているだけだ。
そこには血の匂いや誰かの嘆きや怨嗟などない。
予想外の事が起これば、また別の駒をもってきてやり直せばいい。
だが、操られている駒にも意思がある。命がある。
それを理解できない者に、指し手でいる資格はない。




