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その日は風が強かった。
びゅうびゅうガタゴトと風が雨戸を揺らし、同時に屋根からバキバキと不穏な音がする。
建物の揺れ方がひどくて、倒壊するのではと不安だった。
瓦の屋根ではないが、それなりに立派なつくりなので、崩れるとなったら一気だろう。
「……雨ですな」
逢坂老が気づいてそう言うと同時に、ざああああと激しい雨の音がした。
これほど降れば、足場も緩む。
叔父たちは大丈夫だろうか。
今の季節にこういう雨は珍しい。
空気が乾燥しているし、かなり冷えているので、降るなら雪かと思っていた。
よりにもよって、こんな日に。
耳を澄ませても聞こえるのは嵐の音だけで、もちろん出陣していった叔父たちの様子が分かるわけではない。
櫓の上に昇ったら何か見えるだろうか。
思いのほか協力的だった国人領主たちが合流し、膨れ上がったこちらの兵数は曳馬城にいる八百を超えた。最終的には二千近くになるのではないか。
これだけ集まれば負ける戦ではないと誰もが言うし、実際にそうなのだろうとは思う。
戦は物量だ。
どれだけ三河兵が強壮であろうとも、これだけの兵差があればまず負けることはない。
例えば敵の中に、父クラスの武士が複数いたとしても……だ。
特に、城攻めをするわけでもなく、包囲に耐えかね出てきた者どもを叩くだけなので、安全も安全、昼寝していても勝てる……と断言したのは誠九郎叔父だ。
兵糧の心配をしなくてもいいので、なおのこと楽だと笑ったのは志郎衛門叔父。
源九郎叔父は元の寡黙な男に戻り、ぐりぐりと勝千代の頭を撫でてから出陣していった。
兵士の数がこれほどに膨れ上がったのには理由がある。
寒月様があれほど渋っていた掛川に移ることを納得し、代わりにあの方の護衛として屋敷をかこっていた福島、朝比奈、興津の兵たちがすべてこちらに合流したのだ。
更には興津の計らいで、掛川城に残っていた朝比奈軍もごっそり。
同時に、趨勢をみていた遠江の国人領主たちもそれぞれに兵をだしてきた。
兵糧の心配をする必要もなく、兵力差もかなりあるとくれば、勝ち馬の背に乗りたくもなるのだろう。
いや、そのようにうがった見方をせずとも、三河が攻め込んできたのなら皆で押し返すべき、という認識もあったのだと思う。
他所が兵を出しているのに己の所だけ傍観、というわけにもいかないだろうし。
当然だが、かなりの兵数で城が囲まれるのを見て、曳馬にいた三河兵たちは浮足立った。
ここで、誰かカリスマ性のある人物が指揮をとり、城の防備を固めたら何とかなったのかもしれない。
曳馬はそれなりに堅牢なので、城という防御施設がある方が有利なのは確かなのだ。
だがいかんせん、三河兵たちは連合軍だった。
それぞれの指揮権を持つ複数の勢力が集まっているので、統一した動きができなかった。
例えていうなら、とある家の兵は城を出て戦う事を望み、別の家は防衛に専念するべきだといい、もちろん三河に引き返して朝比奈に対応するべきだという者たちもいた。
それを言うなら、こちらもかなり雑多な連合軍だが、「城を攻める必要はなし」という勝千代の方針があるので、特に目立ったはみ出し者はいなかった。
兵糧攻めという程のものではない。
ただ「こっちくんな」とぶ厚い兵を見せつけ、相手を威圧しただけだ。
逃げ口も、三河方面にちゃんと作ってあげているし、親切だよね?
三河側にも、対今川と身構える部分があったのだろう。
崩れ始めるのも早かった。
「曳馬から逃走する者が後を絶たないようですね」
身内から情報を得ている三浦が、外のガタゴトという嵐の音などまったく気にせず、むしろ明るい表情で笑った。
「いやぁ、一時はどうなる事かと思いましたが」
怒り心頭なのは三河にいる朝比奈軍だ。
兵糧を奪われていた話を知ると、そりゃあもう激怒した。
食い物の恨みは恐ろしいというが、よほど空腹に悩まされていたらしい、あっという間に昨日まで同盟を組んでいると信じていた西三河の貧弱な防備を破壊した。
具体的には、領境を守っていた関所や砦、出城などを積極的に飲み込んだのだ。
いや、やりすぎ。
前線にでていた朝比奈兵の数だけでは、彼らが攻めたてたすべてを押さえるのは無理だ。
特に牧野への攻撃が苛烈だったという。
……うん、やっぱり一日握り飯ひとつ、というのは相当つらかったんだな。
ガタリ、と雨戸が開く音がして、定期的に戦況を知らせてくれる若い兵士が姿を見せる。
三浦弟をはじめ彼ら少年組は、近距離間の伝令という、本来であればそれほど必要のない往復にも文句ひとつ言わず頑張ってくれている。
ふと、逢坂老が刀を握っていることに気づいた。
いや言い換えよう、勝千代以外のすべての男たちが……だ。
なんだ、といぶかしむより先に、ものすごく覚えのある臭気が、雨の湿った臭いに混じって漂ってきた。
「も、申し上げますっ! 城内に敵兵が侵入しております!」
入ってきた若い伝令は、ずぶ濡れでよくわからないのだが、着物の腕の部分を切られ、怪我をしているようだった。
「どこの兵だっ!」
「指物はありませぬ! 身元が分かるようななりはしておりませぬ! ひそかに山を登り、尾根伝いに攻めてきたようですっ」
「数は!」
「およそ五十ほどかと」
「五十ぅ?!」
カッと目を見開いた逢坂老の表情が怖い。
盛大に鼻を鳴らし、立ち上がり様即座に指示を出し始める。
カンカンカン! カンカンカンカン!
頭上あたりからけたたましい半鐘の音。
わあわあという男たちの声。
「若はこちらに!」
「……わかった」
たった五十で、小さいとはいえ城を攻撃してくるなど有り得るのだろうか。
いや、この城は今ほとんどの兵士が出払ってしまっている。
もちろん勝千代がいるということもあり、百ほどは残っているが、戦闘員ではない者の方が多い。
だが、二千もの軍勢が近距離に居るのだ。たとえ落城させることができたとしても、長続きするはずもない。
敵もそんなことはわかっているだろうに、何の目的でこんなことを?
「いたぞ!」
本丸へ向かおうと雨の中踏み出した時、太い男の声がそう叫ぶのが聞こえた。
豪雨でけぶる視界に、ばちゃばちゃと水たまりを踏むような音。
黒っぽい胸当てとすね当て、手甲を身にまとい、三角の小さな帽子の被り物をして。
どこかで見たことのある男たち。
いや、彼らに対してそう思ったわけではない。
こういう状況に対する、疑似感? いや、既視感といったほうがいいだろうか。
迫ってくる男たちを見ながら、「なるほど」と妙に冷静に思った。





 
  
 