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その夜、遠くで「ぶお~ぶお~」と聞いた事のない音がした。
最初は細く、次第に太く大きくなっていくその音に、急に城内がバタバタし始める。
勝千代は半身を起こし、暗い室内に目を凝らした。
いつもなら、夜通し灯明がつけられ、部屋の隅には宿直がいる。
一人きりだと気づいた瞬間、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
いや、ひとりではない。あの襖を開けた向こうに、父が休んでいるはずだ。
勝千代は掛けてあった布団を脇に避け、できるだけそっと、音をたてないように臥所を出た。
四つん這いから起き上がろうとして……自分でも何を察したのかわからない、がくりと両肘を折ってうつ伏せになる。
痛い。
思いっきり鼻をぶつけてしまった。
しかしそんなことを気にしている余裕はなかった。
視界の隅に、ぬるりと金属の光沢が走る。
最初の一閃を避けることができたのは、幸運値が仕事をしたからだろう。
しかし二閃目を避けることは、物理的に不可能だった。
勝千代は寝間の上にころがっており、むしろその細首を差し出すような格好なのだ。
何が起こっているのかまったく理解していなかった。
ただ本能が、振り上げられた死神の鎌を感じ取っていた。
ぎゅっと目を閉じて、最期の抵抗とばかり身を固くして……
ふっと視界に影が入った。
室内は暗い。明かりひとつないので、まったく視界が利かない。
しかし、襖の隙間から差し込むほんの少しの光が、瞳孔を収縮させ影を映した。
「……お怪我は?」
「え?」
「すいませんね、遅くなりまして」
聞き覚えのある声だった。
しかし、こんな時に聞くとは思っていなかった。
ぶしゅっと粘度のある液体が飛び散る音がする。
誰かが低く呻き、どさりと床に落ちる。
「失礼」
立ち込める血臭に息を詰まらせていると、ものすごく無造作に全身が浮いた。
「ちょっと面倒なことになっています。騒がずおとなしくなさっていてください」
それは、例の細目の男の声だった。
「父上に何が」
「……しっ」
まるで小荷物のように脇に抱えられ、父がいるはずの隣の部屋に移動する。
そこでも灯明が消されていたのだが、闇に慣れた目には寝間で布団にくるまったままの人影が見えていた。
「ち、ち……」
父上、と叫ぼうとした口を、塞がれる。
ひょろりと細身のようでいて、剣だこのできた大きな手だった。
「眠り薬を盛られたんですよ、抜かりました」
まるで猫の子を離すように降ろされて、勝千代は父の側に膝をついた。
「父上、父上」
そっとゆすってみる。
「薬を盛られたと言ったでしょう? ゆすっても叩いても起きませんよ」
勝千代は、父のひげ面に両手をあてて引っ張ってみた。次いで何度か叩いても見た。
起きない。
うるっと涙腺が緩んだ。
しかし、手のひらに吐く息のぬくもりを感じ、なんとか堪える。
「誰がこんな」
「殿だけじゃありませんよ、うちの連中そろいもそろって」
ぶつぶつと文句をいう男の話をまとめると、昨夜勝千代が寝入ってから、大人たちは酒宴を開いたらしい。
そこでの問題はなかった。何故そうかわかるかというと、この男もしこたま酒を飲んでいたからだ。
問題はそのあと。寝る前に用意された白湯の一杯に、眠り薬が仕込まれていたらしい。
細目の男が何故それを飲まずに済んだかというと……
「酔いつぶれていたんですよ!」
だ、そうだ。
道理で先ほどから酒臭かったわけだ。
ぶお~ぶお~
再びあの音が聞こえる。
同時に、カンカンと金属を打ち鳴らすような音が鳴り始め、ますます非常事態に拍車がかかってきたのが分かる。
勝千代は父の口元に手を置いたまま、びくりと身を震わせた。
遠くで大勢が廊下を走り回り、騒いでいる。
いったい何が起きている?
不意に、細目の男がかちゃりと太刀の鯉口を切った。
同時に、バン! と勢いよく、勝千代がいた部屋の襖が開いた。
この時代、夜間のあかりは貴重である。
日常の屋内での光源は灯明で、菜種油を張った皿に芯を浸し、それに火をともすといったものだ。
光源としては非常に弱く、おそらく小さな豆電球ほどの明るさしかないだろう。
それでも、月の光も届かない夜の屋内で、その小さなあかりは眩しかった。
目にまず映ったのは、飛び込んでくる黒い人影。
その背後で、彼が少し前まで休んでいた寝床に手を当てている男。
勝千代が状況を判断する前に、双者は切り結んでいた。
鋼の滑る音。
力強く床を蹴る音。
我に返ったのは、寝床に手を当てていた男がいつの間にかそばまで来ていて、そっと目の前で膝をついたからだ。
「若君」
「……っ」
弥太郎だ。
顔を頭巾で隠しているが、声でわかった。




