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人間が生きていくために必要なものは何だろう。
衣、食、住だ。
とりわけ今の優先順位は、とにもかくにも食べるものだった。
子供が成長するために栄養は不可欠である。それなのに、厨から運ばれてくる食事は一日一度、しかも水のような穀物粥だけなのだ。
冷え切った汁椀に申し訳程度に浮かんでいるのは白っぽい小さな粒々。食感はもそもそとしていて、独特のにおいもある。
米ではない。おそらく稗だろう。
せめて粟か黍だったらもう少しおいしいと感じただろうか。
栄養はそこそこあると知っていたが、いかんせん量が少なすぎる。胃が縮んだ幼児でも、腹を満たすには不十分だった。
飽食の時代に生まれ育ち、繊細な和食の味に慣れている身としては、こんなものがまともな食事だとは思えなかった。
吐き気を堪えながら、ひたすらただ嚥下する。
なんとかしなくてはと思っても、臥所から身を起こすのがやっとの状態ではどうしようもない。
食後しばらく横になっていると、いつものように腹痛が襲ってくる。身体が受け付けないのか、精神的なものかはわからないが、このまままともに食事ができないようでは、ますます身体を悪くするだろう。
ため息交じりに生え際に手を伸ばす。もはや癖になってしまった確認作業で、健気に生えてきた髪を確かめる。
諦めてはいけない、この身体は生きようとしている。
こんな地獄のような場所で、幼い子供を死なせてはならない。
閉め切られた薄暗い室内で、すでに痛みはないが爛れた傷跡になってしまった火傷を見つめる。
もちろんこの時代に彼が知る火傷の薬、軟膏のようなものはないが、ヨネはどこからかとってきた草を揉み貼り付けてくれた。彼の目に入るときにはすでに原型をとどめていないペースト状だったが、薬草の類なのだろう。
ここは日本だ。それなら食用の野草を採取するというのはどうだ?
少し考えて、またため息をつく。
日本の植生について多少の知識はあるが、食用の植物ならばヨネのほうが詳しいだろう。
食糧事情が不安定な時代なのだから、食べても問題がないものについて先人の知恵として伝わっているはずだ。
そしてそんなものが身近にあるなら、ヨネはきっとなんとしてでも取って来る。
治りきらないケロイド状になっている腕を懐に戻し、ぺったんこな腹を撫でた。
食べれば腹痛に苦しむが、食べなければ体力がつかない。
野草ではなくもっと消化の良い、効率よくエネルギー源になるものが必要だった。
米とまではいわない。稗でもかまわない。そもそもの食べる量を増やさなければ……遠くないうちに衰弱死してしまうだろう。
父に助けを求める?
戦に明け暮れているこの子の父親が、味方だとどうしていえる? 異母兄も父の息子だ。同じ息子なのだから、あちらの言い分を信じかえって邪魔者扱いされかねない。
母は?
それについては情報不足だ。この子の中にその記憶はない。すでに離縁しているか、死別したか。勝千代が嫡男のままだということは、それなりの身分の女性なのかもしれないが、名前ですらノーデータだ。
その他の親族にしても、記憶の中に情報らしい情報はなく、頼れる先は皆無だった。
詰みか。詰んだな。
まともに動かない身体で自嘲する。
死にたくない。この子を死なせたくない。
たとえどんなに強くそう思ったとしても、成し遂げられないのでは意味がない。
唯一救われることがあるとすれば、この子が死への恐怖を感じずに済むことだろうか。
いっそここから出ていこうか。
せめてあと五歳年長であれば、それが一番現実的な生存方法だったと思う。
治安があり得ないほど悪く、日中から盗賊や人攫いが横行していたとしても、ここよりは生きていけるチャンスがあるのではないか。
到底実現不可能な夢物語をもてあそびつつ、空腹と、寒さと、はっきり近づいてくるのがわかる死の気配とを紛らわせる。
ど、ど、ど、ど!
憚りない足音がしたのはそんな時だ。
普段からこの部屋の周りはとても静かで、人の話し声も、廊下を歩く音すらも聞こえない。
そもそも勝千代は動けないし、足腰が悪いヨネはあんな風に歩けない。
近づいてくる音は軽い。子供か?
耳をすませば、その後ろに続くどかどかと乱雑な大人の足音も聞こえてくる。
異母兄と、そのお付きの連中だとすぐに察した。
ごめんなぁ
そっと目を閉じ、心からの謝罪をする。
今これ以上の暴力を受けると、洒落にならない結果になるだろう。
大人なのに、なんとかしなくてはいけなかったのに。
結局彼は一か月を無駄に浪費し、解決策を導き出すことができなかった。
ほんと、ごめん。
繰り言だとわかっていても、謝罪する。
せめて今わの際の苦痛は請け負うから……と。
バン!と大きな音をたてて、上貼りの剥がれた襖が横に開く。
開けたのは若い武士で、続いて異母兄が、鼻をつまみながら顔をのぞかせた。
板間の廊下に立ったまま、部屋に入ってこようとはしない。
さすがに一か月も寝付いた病人がいると、相応に臭うのは仕方がない事だ。
「臭いのう! 家畜小屋かここは」
土気色の顔で臥せっている勝千代とは違い、兄の千代丸は今日もふくふくと獅子太りで、健康そうだった。
「不貞寝しておると聞いて見舞いに来てやったというのに、起き上がりもせんのか」
「あほうの子ですから仕方が御座いませんよ」
兄に対する礼儀がなっていないやら何やら、ひととおりぎゃあぎゃあと騒ぎ、空気が悪いと部屋中の仕切りを開け放つ。
かろうじて保たれていた室温が一気に外気と混ざり、氷のような風が吹き込んできた。
「家臣として、しっかり教えて差し上げねばなりませんなぁ!」
勝千代の胸倉を捕み、薄いせんべい布団から引きずり出したのはひときわ屈強な若者だ。
にやにやと笑うその黄色い歯を見上げ、そっちのほうが汚ねぇなぁと思いつつ。
縁側から外に放り投げられ、もんどりうって庭に転がり、背中と後頭部を強くぶつけて意識が遠くなった。
肺に残っていた呼気をすべて吐き出し、咥内にさびた味が広がるのを感じる。
あふれる血を手で押さえることすらできず、意識がブラックアウトする一瞬。
彼の頭にあったのは、若者の歯の黄色さのことと、そういえばこの一か月歯磨きしていなかった、という衝撃の事実だった。