33-2
飯尾が重傷を負ったことは知っていた。
命の危機の瀬戸際にあることも。
だがしかし、その本当の意味は理解していなかったのだと思う。
現代日本で大怪我を負ったら、清潔な病室で医師からの手厚い治療を受ける。
海外の紛争地域ではわからないが、少なくとも日本ではそうだった。
なので、命に係わる重傷というのがどういうことか、真に理解できてはいなかったのだ。
飯尾が寝かされていたのは、勝千代の部屋の隣の隣だ。
極めて近い、声を出せば届くほどの距離なのに、どうしてこれまで気づかずにいたのだろう。
廊下にいる段階で、甘いような酸っぱいような不快な臭いがする。
それに混じった薬草の臭いは、強烈に勝千代の過去の記憶を刺激した。
そうだ、これは傷口から染み出す体液の臭いだ。
血小板? 浸出液? あるいは膿だろうか。
怪我をして治りきらない部分から、ジュクジュクとした血以外のものが滲みだし、絶えずこういう臭いがするのだ。
すうっと全身から血の気が失せるような錯覚がした。
踏ん張っていないと、その場で尻餅を着いて倒れてしまいそうだ。
柱に手を添え、なんとか見苦しいさまを見せずに済んだが、顔色の悪さは隠せなかった。
「若」
逢坂老が気づかわし気に支えてくれる。
土井と三浦が、その無様な体たらくを隠してくれる。
室温が下がるからと、目の前で襖が閉ざされてはじめて、止めていた息を吸うことができた。
「……意識が戻ったのだな」
閉じた襖を前にそうつぶやくと、逢坂老が静かに頷いた。
「どうしても伝えたいことがあるそうです」
まるで今わの際の、遺言のようじゃないか。
いや、飯尾にとってはそれが本当に言い残す最期の言葉になるのかもしれない。
人の命がたわいもなくすり抜けていく感覚。
勝千代は自身が、いまだ現代日本人としての甘えを残していた事をまざまざと自覚した。
今の己のこの状況を、映画か小説の中のように思っていなかったか?
かつてこの城で死にそうな目に遭った時、飢えや痛みに歯を食いしばっている時でさえ、これほど現実をくっきりと明白なものとしては捕えていなかったかもしれない。
人が死ぬ。
手を尽くしてもなお、その命は簡単に消えてなくなってしまう。
急激な自覚が、足元をおぼつかなくさせる。
弥太郎は何と言っていた?
曳馬城では、大勢が殺され、その中には女中や子供もいたと言っていた。
ああ、これが現実。
紛れもないリアルだ。
目を閉じて、思いっきり肺に息を吸い込む。
襖が締まり臭いは少し遠ざかったが、トラウマを刺激する臭気が鼻の奥にこびりついている。
逢坂老に支えられながら、自らの手で目前の襖をあけた。
彼らを残し、無言のままひとり部屋に入り、静かにその場に腰を下ろす。
広くはない畳敷きの部屋に横たわる飯尾。
その顔面を覆う布にできた染みが、この臭いの発生源だろう。鼻を突く不快な臭気はより強くなり、怪我の状態が良くない事を告げている。
火鉢がいくつも並べられ、湯が沸かされている。
それでも上がりきらない室温と、高熱で赤らんだ飯尾の頬とが対照的だった。
枕元に居るのは、見知らぬ医師らしき男と志郎衛門叔父だけだ。
背後でそっと襖が締まり、部屋が暗くなる。
思い出すのは、岡部の城での雪崩の後だ。
あの時も大量の怪我人を目の当たりにし、人の死の近さに衝撃を受けたものだ。
しかしそれは、勝千代自身に直接かかわってくるものではなかった。
すでに起こったこと、終わったこと。
今まさに飯尾を飲み込もうとしている死の気配のように、これから自身とその周辺を脅かすようなものではなかった。
叔父が身をかがめ、飯尾の唇に耳を寄せている。
勝千代の居る位置からは、その口の動きは分からないし、何を言っているのかも聞きとれない。
勝千代はじっと、飯尾の震える手が叔父の方に延ばされ、その袖を握るのを見ていた。
節高の、青白い手だ。
まるで死人の手のようなのに、ぎゅうと握る力は強い。
命が零れ落ちていく。
まるで、重みなどまったくない砂粒のように。
曳馬城の者たちの命も、こうやって消えて行ったのだろう。
今この高天神城にいる者たちの命も、同じように儚く途絶えてしまうのだろうか。
両手で救おうとしてもどうにもならずに?
……いいや、そんな事にはさせない。
勝千代は目を逸らさず、顔面に怪我を負いかつての面影など皆無な飯尾を見つめる。
―――生きろ。
心の中でつぶやく。
掛川城で、勝千代を見て怯えたように青ざめていた青年の顔を思い浮かべながら、彼が生き延び、再び立ち上がる事を心から願う。
叔父の袖を握っていた手から力が抜けた。
一瞬どきりとしたが、ただ意識を失っただけのようだ。
叔父が聞いた話の内容は分からないが、いい情報ではない事は確かだ。
厳しい顔をしてこちらを見た叔父に、同じように厳しい表情で頷きかける。
勝千代は席を立った叔父が部屋を出て行ってもなお、死体のように横たわっている飯尾の顔を見つめ続けた。
飯尾は伝えなければならなかったことを、言えただろうか。
叔父はそれを聞き取れただろうか。
どくどくどくと、小さな体の中の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
今のこの止まったような時間は、嵐の前の静けさだ。
危機は、すぐそばまで迫っていた。




