32-7
明け方、東の空が白み始める頃になっても、飯尾はかろうじて息をしていた。
意識は戻らないし、熱は高い。
やはり予断は許さない状況だが、生きようとしている。
密書を運んできた者はもたなかった。深夜遅くに息を引き取ったそうだ。
飯尾もそうなるのではと気がかりだったが、勝千代にできることは何もない。
せめて手厚い治療をと、本丸の畳敷きの部屋で休ませている。
明け方には、ちらほらと情報が集まり始めていた。
曳馬城は一見無傷だが、城内は三河の者と入れ替わっており、城下の町にも人の気配はないそうだ。
まさか町にいた非戦闘員まですべて殺されたとは思いたくはないが、曳馬城にいた兵士たちの屍は城の裏手に山積みにされていて、忍びが遠目に見たところによるとその中には女中などの姿もあったようだ。
城主や重臣たちの幾人かは、おそらく生きたまま捕えられているのだろう。
地下牢につながる入り口が特に厳重に警備されているらしい。
掛川から運んだ兵糧は、すでにもう城内にはないそうだ。
腹立たしいが、すでに敵陣営に流れて行ってしまっているのだろう。
やはり、初手から敵に踊らされていたようだ。
叔父たちはまだ薄暗いうちから、この先の事について軍議を重ねている。
勝千代はその話し合いに参加はしていない。当たり前だ、まだ元服も遠い数え六つの童子なのだ。
だが狭い城なので本丸の部屋数もそう多くはなく、話は筒抜けだった。
ただ厳しい状況だけが伝わってくる。
ちなみに、飯尾が寝ているのも隣の部屋だ。そちらの状態も、楽観できるようなものではない。
「若」
文机の上の紙を見下ろす勝千代に、逢坂老が声をかける。
昨日の疲れなどまったく見せない。その体力はどこから来るのか。
「お休みにならなかったとか」
眠らなかったのではなく、眠れなかったのだ。
そういうことまで筒抜けなのは、城が狭い為ではなく、勝千代の顔色を見ての判断だろう。
「戦は長丁場ですぞ」
経験も実績もある男の言う事だ、素直に聞くべきなのはわかっている。
だがしかし、夜は既に明けてしまった。この状況で横になれるほど肝は太くない。
「眠くなれば寝る」
文机から顔を上げずそう言うと、逢坂老がため息をつく。
「眠くなくとも寝なくては」
そうだな。頭では理解できる。
だがしかし、この先の事を考えると目を閉じる事さえ恐ろしい。
「逢坂」
「はい」
「……どう思う?」
日焼けしてなめし皮のようになった顔を見返して、文机の上の紙を指し示す。
逢坂老が「失礼して」と近寄り覗き込んだのは、弥太郎から聞いた事を頼りに書き記した簡易な地図だ。
城の位置、砦の位置をデフォルメして書き記している。
「……ここだ」
勝千代が指し示したのは一点。
朝比奈家の分家が布陣しているという、三河中央部の砦だった。
「落ちたと思うか?」
今川の対三河最前線。相応の兵力が配備されていたはずだ。
逢坂老は首を傾げ、しばらくその一点を眺めてから、ためらいがちに口を開いた。
「調べてみない事にははっきりいたしませぬが、惨敗し引いたのであれば、少数なりと逃げ延びてくる者もいるはずです。その知らせはまだ届いておりませぬな」
簡単にどうとも言い切れるものではないので、老の口調はあいまいだ。
勝千代はひとつ頷いて、更に言葉を続けた。
「まったく手付かずの可能性はないか?」
叔父たちは、東三河の勢力が裏切り、西三河と結託して曳馬城まで押してきたのだと考えている。
もちろんその可能性はおおいにある。
だがしかし、砦が落ちたという知らせも軍を引いたという知らせもないうちに、全滅したと判断してよいものか。
勝千代の勝手な想像なのだが、無線も望遠鏡も観測機もないこの時代、誰にも気づかれずに軍を動かし搦手で城を落とすことは不可能ではない気がする。
近距離にある曳馬城の落城を高天神城が気づかなかったように、いまだに砦の兵たちがこの状況を知らずにいるという事はあり得ないだろうか。
「ですが厳しいですぞ。曳馬からの補給がなければ砦の維持は難しい。たとえ裏切っておらずとも、東三河には今川軍に兵糧を援助するだけの余力はございませぬ」
「曳馬から前線への補給の頻度はどれほどなのだ? 物資が届かない場合どれぐらいもつ?」
「わかりませぬな。他国の領内を通っていきますので、そう頻繁ではなかったでしょうが」
勝千代が睨んだとおりだとして、おかしいと感じるのは補給が完全に断たれてからの可能性はある。
流通の不備が常態だったなら、すぐに気づくのは難しく、明日明後日の食糧が尽きてから慌てる羽目になるのかもしれない。
もしそうだとすれば、砦の維持どころか戦線の維持、いや兵士を生かすことすら難しいだろう。
典型的な、補給路を断つという戦略だ。
ふと、日向屋の副番頭佐吉の事を思い出した。
あの男が、よりにもよってこのタイミングに庶子兄の事を知らせたのは偶然だろうか。
実際に庶子兄が曳馬城にいたのだとして、朝倉が預かったにもかかわらず逃してしまった故に知らせてきたのだとして、本当にこのタイミングである必要はあったのか?
すべてが偶然ではなかったのなら、少なくとも佐吉は、この状況を知っていたという事になる。
「……弥太郎」
「はい」
勝千代の呼びかけに、例によって例のごとく、即座に返答が返ってきた。
歴戦のつわものである逢坂老でさえぎょっとするほど、気配もない唐突さだった。
「佐吉を呼べるか?」
「日暮れまでには」
「あちらにも話があるはずだ」
勝千代は地図を傍らによけ、新たな紙を手に取った。
紙質はそれなりだが、相手が相手なだけに十分だろう。
簡易な書き付けを受け取り、弥太郎は丁寧に頭をさげた。




