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過小評価していたつもりはもちろんない。
しかし実際、意気揚々と引き上げてきた逢坂騎馬隊を遠目に視認したとき、ずっと感じていた後悔が安堵に塗り替わり、どっと力が抜けた。
「……若!」
アドレナリンが過剰に分泌しているのだろう、逢坂老の声は大きく、大手門よりかなり手前にいた勝千代の耳までしっかり届いた。
馬の手綱を側にいた者に預け、年齢を感じさせない足取りで斜面を駆け上がってくる。
近づくにつれ、五体無事な事ははっきりとしたが、同時に、その身が戦塵に晒されたことも知れた。
頬に傷ができている。肩と手甲の部分も破れている。
逢坂老は勝千代から少し離れた位置で立ち止まり、片膝を付いた。
「申し訳ございませぬ、御命令を果すことができず……」
「よい」
勝千代は、頬から血を垂らしているのにやけにギラギラとした逢坂老の表情に若干引いた。
前から思っていたけれど、この男、父以上にわかりやすく戦闘狂だ。
「その方が無事でよかった。曳馬城はどうなっている?」
「その話は……」
それもそうだ。こんなところで話せば士気にかかわる。
「止血を!!」
不意に、聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。
誰かが重傷を負ったのか。
勝千代が声のする方向を見ると、源九郎叔父も混じった人垣ができていた。
「……飯尾殿です」
勝千代は再び逢坂老に視線を戻し、「飯尾?」とつぶやきながら首を傾けた。
「もしかしなくとも小荷駄隊を率いていたあの者か?」
「はい」
やけに勝千代を恐れ、怯えた様子を見せていた男だ。
曳馬城城主の次男だと聞いた。
「倒れているところに行き遭いまして」
城を逃れ、追手をかわすべく川に飛び込み、対岸に渡るまではなんとか意識を保っていたものの、出血と寒さにやられて意識を失っていたらしい。
「深手なのか?」
「腕はなんとかなりそうですが、左眼は持って行かれましたな」
いや、そんな重傷で川の冷たい水に浸かったのでは、片目どころか命に関わるのではないか?
肺炎や感染症を併発したら、助からないかもしれない。
案の定、夜も更けるころには高熱を出し、うなされ始めた。弥太郎の診立てによると、かなり危ないらしい。
逢坂騎馬隊が無事なのは、飯尾を拾ったことにより異常事態を察し、その後に彼を追ってきた者どもと乱戦になったからだ。
追手は少数で、「たいした相手ではなかった」と逢坂らは言うが、傷を負った者が何名かいるらしく、想像するに接戦だったのではないか。
曳馬城に入っていれば皆殺しになっていたかもしれず、それを思えばまだ幸運だったと言えるだろうが、楽観視はできない。
こんな非常事態でも、深夜になるとやはり人の気配は薄くなる。
どこかで声は聞こえるが遠く、夜山の自然音がやけに恐ろし気に響いていた。
勝千代は本丸の横にある建物に部屋をもらい、かなり早い刻限から休むようにと言われていた。
何が起こるかわからないから、休めるうちに休むべきだという理屈は理解できる。しかし……
「眠れませぬか?」
様子を見に来た志郎衛門叔父が、暗闇で座り込んでいる勝千代に声をかけてきた。
勝千代は月を背景にした櫓を見上げながら、「目が冴えてしまって」と小声でつぶやく。
昼の騒ぎのせいももちろんあるが、それよりも、今この時に息を引き取るかもしれない男たちの事を考えると、横になっても眠れそうになかった。
いや正直に言おう、ひとりきりになり、夜の暗闇に目を凝らしていると、数か月前の飢えや苦痛をどうしても思い出してしまうのだ。
「飯尾殿の呼吸が浅いとのことです。持たないかもしれません」
「……そうですか」
叔父の言葉に勝千代は頷き、ため息を飲み込む。
「曳馬城への偵察が戻り次第、掛川の興津殿と話し合い、戦になるでしょう」
「駿府は増援を送ってくれるでしょうか」
「……どうでしょう」
今川は、今の時期には無意味なほどの大軍を甲斐方面に配備している。
叔父たちの見立てによると、こちらに送れる剰余兵があるかさえ怪しいとのことだった。
ちなみに双子の叔父たちは、父とともに国境の出城に配備されていたらしいが、父の詮議の件で戻ってくるように命じられ、その後何も指示がないので高天神城にとどまっているのだそうだ。
つまり、父が甲斐に連れて行った以外の福島の軍勢のほとんどが、まだ信濃国境に行ったっきりなのだ。
周辺の在野の農民をかき集めても、今すぐに福島家が使えるのはせいぜい五百。
万が一にも三河勢が総力戦を仕掛けてきた場合、殲滅されてしまう可能性も大いにある。
現在の今川軍は、どう考えても適切に動かせていない。全軍を指揮統括できる者がいないのかもしれない。
こんな状態で、あちらもこちらも戦火が開かれてしまったら、果たしてきちんと防ぎきれるのだろうか。
「……異常なし!」
見張りの交代の刻限なのだろう、櫓の上で申し送りをしている声が聞こえる。
勝千代はしばらくの間、叔父と並んでその様子に耳を傾けた。
やけに明るい月夜だが、やはりこの時代の夜は深く、櫓は黒い影になって詳細をうかがい知ることはできない。
「勝千代殿」
しばらくして、志郎衛門叔父が口を開いた。
「寒月様とともに駿府に戻られた方が良いかと思います」
それはつまり、高天神城に戦火が及ぶ可能性を示唆している。
勝千代はしばらく口を閉ざし、「はい」と答えたい気持ちを堪えた。
本心を言えば安全な場所に逃げたい。
ここはあまりにも前線に近すぎる。
だがしかし、勝千代は小さくかぶりを振って、見えはしないだろうが笑みを浮かべた。
「……いいえ。おそらく寒月様も頷かれないでしょう」
「ですが」
「駿府には幸松がいます。万が一のことがあっても、血は残ります」
口ではそう言えても、覚悟があるわけではない。
ただ、この時代の厳しさが子供だからという理由で避けて行ってくれるとは思えず、それはここにいようが駿府にいようが同じことだ。
「私はまだ幼少故に何もできませんが、戦う者たちを置いて逃げることはできません」
自分自身の言葉に、ずいぶんご立派な事を言うと失笑しそうになった。
九割の自分が逃げ出したいと思っていて、平静を装いそう言うのは残りの一割だ。
たとえ大人になったとしても、勇敢に戦って散ろうとは思えないだろう。
そんな自身に、やはり武家には向いていないと思うのだ。




