32-1
逢坂老を送り出したのち、半日で高天神城に行けるようなので、叔父に相談しに出かけることにした。
もちろん庶子兄のことだ。
道すがら、伏せておいてもそのうちわかってしまうので、状況を知らない側付きたちにも話を通しておく。
意外なことに、曳馬城にいる庶子兄を知っている者は多かった。
年齢が近いということで、行動を共にしたことがある者までいた。
「福島姓を名乗っているのですか?」
誰もが微妙な表情をする中、ありありと不愉快そうにそう問いかけてきたのは三浦だ。
「中村ではなく?」
「……いや、父上の子だと言っているとは聞いたが、名乗りまでは知らない」
言われるまで考えもしなかったが、庶子であれば父の姓は名乗れないのだろうか。
この時代には厳密なルールはまだないだろうから、当主の許し如何によるのだと思うが……そうか、父は側室の子らに福島を名乗ることを許していなかったのか。
何が父をそこまで頑なにしたのだろう。
父はとても愛情深い人だ。きっとなにかよほどの事情があるに違いない。
逢坂老が言うように、三人の庶子のすべてが実子でないというのは、現実的ではないように思うのだが。
「殿にお知らせするべきだと思います」
三浦のものすごく不快そうな表情を、意外に思いながらまじまじと見上げる。
「前線にいるのに、そのような些事に気を取られて大丈夫だろうか」
「些事ではありませぬ」
人当たりがよくにこやかな好青年である彼を、ここまで忌避させるのも相当だ。
ますます庶子兄への興味が湧いてきた。
いや、直接会いたいとまでは思わないよ。あちらが勝千代を快く思っていないのは確実だし。
「再び福島の家督を狙っているという事ではありませんか?!」
馬の傍らにいるので、その嘶きや蹄の音はずっとしていたが、三浦のその言葉はやけにはっきりと周囲に届き、皆をますます深刻な表情にした。
彼らの反応を見るに、曳馬城にいるという庶兄はかなり厄介な人物らしい。
皆が知っているのは十歳前後、早田が腕を落とした千代丸と同じか少し上ぐらいの年だったはずだ。
まだ子供と呼べるそんな年頃の少年が、多少のやんちゃをしても、普通はそう目くじらを立てられることはない。
それがこの反応。
少なくとも三浦にはいい記憶はないようで、むしろ嫌悪感すらあるように見える。
それに、嫡男である勝千代に「家督を狙っている」と即座に言えるという事は、庶兄イコール野心家というイメージが強いのだろう。
「……千代丸殿に似ている?」
ためらいがちに聞いてみると、男たちははっと今気づいたような顔をして勝千代を見下ろした。
瞬きを何回かするうちに、申し訳なさそうな顔になって、おそらくは幼い子供に聞かせる話ではなかったとでも思ったのだろう。それぞれに首を左右に振る。
「もはや福島家とは何の関わりもない方です。お気になさらずに」
三浦はそういうが、少しでも事前に情報を得ておきたい。
朝倉家がわざわざ知らせてよこしたぐらいだから、きっと本人で、遠からず拘束され高天神城に連れて来られるだろうからだ。
太陽は丁度中天ほどの位置にある。
早朝に出てきたので、そろそろ着くのかもしれない。
左手に見える高くはない山の連なりから、無意識のうちに視線を外していたことに気づいた。
「そろそろ参ろうか」
勝千代がそう言うと、それぞれが馬の首に手を置き、軽くさすって出立の合図をする。
頭の良い馬たちはすぐに察して、水を飲んだり下草を食んだりするのを止め、首を持ち上げた。
馬は可愛い。湿った大きな黒い目が、きらきらと光っている。
たてがみを組みひもで幾つも結び、オシャレに装っている子。黒い体色がつやつやと輝いて見える子。
どの子も疲れなど見せず、主人を運ぶことを喜んでいるのが伝わってくる。
勝千代が土井と同乗している馬は葦毛だ。黒の要素が強い子で、たてがみと顔まわりは白いが、身体の部分は濃いめの灰色だ。
その可愛らしい大きな目がぐるりと勝千代を見て、顔を寄せてきた。
何度か髪を食まれそうな気配を感じていて、今回も警戒したが、彼はすりと勝千代の頬を鼻先で撫でた。
いや、顔を舐めないでほしい。べたべたするから。
だけど……うん、ちゃんと伝わった。
馬にまで心配をかけている。
ぐっと両手を握り締めて、指先の震えを堪えた。きっと顔色も悪い。唇まで青いかもしれない。
だがそれでも、引き返すという選択肢はなかった。
おそらくあの山の向こうに高天神城がある。
かつて幼い勝千代が幾度となく死ぬような思いをして、怪我に耐え、飢えに苦しんだ地だ。
理性よりも本能の部分で、恐ろしいと感じている。
それは幼い子供としては当たり前の、大人であっても消せない傷なのだと思う。
大丈夫。大丈夫。
今はあの時のように一人ではない。
ヨネだけを頼りに寒さに震えるような日はもう来ない。
勝千代は土井の手を借りて馬に乗りながら、その太くがっしりとした腕に心強さを覚えた。
土井だけではない、残りの者たちも、勝千代を命がけで守ってくれるだろう。
勝千代は福島家の嫡男だ。その主城で身の安全を脅かされるようなことはない。
すっと、これまで見て来なかった山並みに視線を向けた。
冬の広葉樹の寒々しい山が視界の端まで続いている。
客観的に見て、それほど高い山ではない。
慣れれば子供でも普通に登山で乗り越えていけそうな山稜だ。
かつては迫りくる山が壁のように見えていた。自力でそこを抜けていくのは無理だと感じていた。
だが今は、弥太郎か土井か……誰かが難なく運んでくれるだろうと思う。
「……土井」
並足で揺られながら、背後の土井に声を掛ける。
「あの城で昔、お化けを見たことがあるんだ」
「お化けですか?」
「濃い化粧をして、真っ赤な紅を引いて、むき出しの歯で喉笛に食いつこうとしてくる」
それは桂殿のことでもあり、勝千代自身の心の弱さでもある。
土井は察したように腕の力を強め、しばらくして、ぐっと低い声で内緒話をするように囁いた。
「……恐ろしいですね」
「うん」
とても、ものすごく恐ろしい化け物なんだ。




