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一日悩んだ。
福島正成の息子とはっきり名乗っている庶兄を放置しておいていいものか。
「親切な」忍びが知らせてくれたぐらいだから、よほど何かあるのだろうし。
佐吉のことは弥太郎に任せるにしても、こちらは誰かに一任するのもかなり問題な気がした。
行くか? 曳馬城へ?
いや、勝千代が動くだけで周囲は注目するから、余計にその庶兄に目が集まりややこしい事になりかねない。
勝千代が移動するということは、逢坂老や谷、おそらくは田所も同行するだろう。
寒月様の護衛を置いて行ったとしても、百人近い大所帯になる。
勝手に兵を動かしたと咎められかねない数だ。
「若」
逢坂老が傍らに膝を付く。
厠帰りの井戸端で、手を拭く布を差し出してきたのだ。
勝千代は無言で受け取って、見るともなしに逢坂老の顔をじっと見つめた。
「……父上はどうして庶兄らのひとりを嫡男にしなかったのだ?」
逢坂老はしばらく黙り、緩く首を振った。
「それほど長くお側に侍ることはございませんでしたので、詳しい事は」
「言えない事情が?」
「噂はあります」
噂、噂ね。
勝千代が癇癪もちの悪逆童子だと噂される程度の信憑性だ。信じる者もいるのだろうが、あくまでも噂と思う者も多いはず。
いや、語弊があるな。真実と混同してどれが嘘か判別するのが難しい、というべきだろうか。
「殿の御実子ではないという噂です」
「逢坂」
たしなめる声は、意外と大きなものになってしまった。
こんなところでする話ではない。
誰かが誤解をして、勝千代はともかくとして、幸松の出自に余計な噂がついては困る。
「……例えば今、私か父、あるいは両者ともに死んだとすれば、福島の家督はどうなる?」
「若!」
「幸松か? まさか兵庫介叔父上ではないな?」
手ぬぐいを返すのと同時に、逢坂老の非難の目に冷静な視線を返す。
「さらに幸松もいなくなれば?」
「恐ろしい事を仰らないでください」
見回すと、側付きはじめ警護の者たちも皆、こわばって血の気の失せた表情をしていた。
いや、ただの例えだから。
実際にそうなると予想しているわけじゃないから。
福島勝千代として生きていく中で、常に最悪を考えて動かなければ、後手に回るのだと学んだのだ。
「曳馬にいる兄が跡取りに名乗り出て、それが受け入れられることはあり得るか?」
父と勝千代が死んだ後、幼い幸松にまで手を伸ばさなくとも、すでにある程度年かさの兄が乗り出してくる可能性は高いような気がした。
「……御屋形様の御采配によるかと存じます」
あるいは、病床の御屋形様の代わりに今川家を動かしている誰かが……だな。
勝千代は、逢坂老があえて口にしない言葉を受け取り、小さく頷いた。
「父上の御命がまた狙われるやもしれぬ」
「戦場にあるということは、常にその恐れはあります」
「毎回うまく避けることができるとは限るまい」
物理的に襲われるのはともかくとして、食べ物や水に毒を仕込まれては避けるのは難しい。
側にいる段蔵が気を配ってはいるだろうが、段蔵配下の風魔忍びは数がそれほど多くない上に、半分弥太郎のもとに残っているので、人手は足りていないと思う。
かといって、よその忍びを雇い入れるのも、信頼性の問題で躊躇うのだ。
風魔忍びだと、勝千代を狙うあの連中を想像するし、かといって伊賀や甲賀だと、他国の息がかかっていないか気になる。
……ああそうか、忍びが信頼されにくいというのはこういう事か。
要はダブルスパイを疑われるのだ。
切れすぎる刃物が両端についているイメージと言えばいいだろうか。役に立つが、逆にリスクも高い。
「逢坂」
「はい」
「曳馬に行ってきてくれないか」
逢坂であれば、庶兄の顔も知っているだろうから、事の真偽を見極めてくれるだろう。
「放逐されたのに、なぜ曳馬にいるのかと問うて来てくれ」
部屋に戻りながらそう言うと、逢坂老は少し考えるように頭を傾ける。
「処分なされずともよろしいので?」
いちいち物騒だが、一理ある。
身内だからと甘い判断を下せば、あとからとんだしっぺ返しになりかねない。
だがしかし、父の子とされる若い命を摘み取る決断を下せるほど、勝千代はまだこの時代に染まり切っていなかった。
「朝倉側からの情報だ、あちらも兄が抜け出したことを気にしての知らせだろう。もう一度引き渡せば、約定どおり念入りに扱ってくれるはずだ」
「ではお顔を確認して、ご本人だと判明すれば拘束します。違えばどうされますか?」
「騙りだと周囲に教えてやればよい」
自称誰それの落とし胤だと法螺を吹く輩はどこにでもいる。
法螺だと吹聴されてしまえば、誰もそのものを信じないだろうし、ついていくこともないだろう。
「飯尾殿は知っていると思うか?」
整備されなおした冬の庭園を歩きながら、ふと、何故曳馬城なのかという疑問が再び湧き上がってくる。
掛川で出会った、やたらと勝千代に怯えていた男は、確か今の城主の次男だったな。
扱いやすそうな男に見えたが、その父が同じようなタイプとは限らない。
「噂程度と考えておられるか、あるいは……」
曳馬城は前線である三河との国境に近く、福島家主城の高天神城にも、朝比奈家主城の掛川城にも近い。
自称父の御落胤が居座るには、訝しいところが多い位置だ。
逢坂老もそれが引っ掛かったらしく、しきりに首を傾げている。
「訪れたのは十年も前ですが、小さな城です。周辺にも大きな町はございませんでした」
そういえば、後詰の話にも引っかかっていた。
対三河の最前線で用心もしていたはずなのに、慌てて兵糧をかき集めるような状況に陥るものだろうか。
そんな状況下で、庶兄が、何か目的があってそんな場所にいるのだとすれば、それこそ不穏すぎて嫌な予感しかしない。
部屋に戻って、決意を固めた。
もっと諜報の忍びの数を増やすべきだろう。
今さら他のところの忍びを雇うリスクよりも、同じ一族で固めたほうが安全だし、弥太郎らの心象的にも、動きやすさの面でもそちらの方がいいはずだ。
風魔といえば北条だが、今の時代はどうなのだろう。
北条家に仕えていないとは思わないが、重用されていないのであれば、ごっそり引き抜けないかな。
要相談、要検討だ。




