31-4
轟介の傍らに控えるのは、まったく目立つところのない男だ。
才気走っている風もなく、愛想がいい様子もない。
誰の目も強くは引かないだろう凡庸な雰囲気の、四十近くの男だった。
確かに、これまで誰ひとりとして男に目を向けず、問いただしもしない状況に違和感があった。
轟介が多弁すぎるという理由もあるのかもしれないが、それだけではないような。
「あの顔を覚えていたのか?」
ここまで没個性的な男の顔を?
自分ならすれ違った瞬間に忘れてしまうかもしれないと呟くと、弥太郎の真顔がふっと緩んだ。
「ええ、同業者ですので」
やはりそうか。
周囲に埋没し、こんな状況なのに誰も男に注意を払わない……改めて観察すると、その異常さがはっきりと浮き彫りになってくる。
「仕掛けられた?」
「おそらくは」
遠い堺で実際に勝千代に対する良くない噂が蔓延しているのだとすれば、意図的に流されたとしか思えない。
そして轟介のやたらと自信ありげな態度も、そう思うよう仕向けられたからに違いなかった。
「どこの者かわかるか?」
「同業者だろうという事は察していましたが、そこまでは」
怪しいと思う対象は割と多いが、そのすべてが潜伏中の忍びだというわけではなく、副番頭の場合は確証が取れるような動きは皆無だったらしい。
だがしかし、以前とは全く違う名前、違う店の人間としてここにいるという事は、完全に黒だ。
「……堺か」
ここは遠江。将来的には静岡県と呼ばれる場所だ。
そして堺はもちろん大阪。かなりの距離がある。
地方の一武将の嫡男の噂を、堺で流す意味があるのだろうか?
狙いは父、あるいは大きく見れば御屋形様なのかもしれないが、噂の発生地が遠すぎて、自身の事なのに対岸の火事のようにしか思えない。
「どうなさいますか」
弥太郎は段蔵とは違い、時折試すようなものいいをする。
勝千代はちらりと弥太郎を見上げ、この男が期待する答えとはどういうものかと、一瞬だけ思案した。
「理由が気になる」
人気商売ではないので、噂程度で目くじらを立てる気はないが、相手は何故、手間も時間も、おそらくは金もかかるだろうことをやっているのか。
もし本当に調略なのだとしたら、はっきりとした目的があるはずで、遠い土地の出来事だと放っておくのは危険な気がする。
「お調べしますか?」
普通の声色だった。
小声で、他には聞き取れない音量だが、ごく普通の問いかけだった。
……ちょっと待て、今ものすごく究極の選択を迫られている気がしたぞ。
勝千代は思わず弥太郎に顔を向け、その表情も視線の色も普段と何ら変わらない事を確認した。
それなのになぜ、こうもぞわぞわと背筋に這い上がってくるものを感じるのだろう。
たかが遠方の噂話だ。
誰がその噂をばらまいているか知りたいだけだ。
だがよくよく考えれば、他国での働きを頼むのは初めてかもしれない。
これまでは今川の勢力内での仕事か、せいぜい手紙のお使い程度だったが、堺で情報を集めるとなると話は変わってくる。
勝千代が勝手に判断して、父の忍びたちを動かしてもいいものだろうか。
「……頼んだとして、誰がその仕事をする? そなたらが父に命じられているのは、私の身の回りの事だけだろう」
「外注になりますね」
が、外注? 忍びの世界にもそういうものがあるのか?
いや、そもそも忍びとは傭兵だ。むしろそれがスタンダードかもしれない。
「お許しいただけるのなら、同族の者を紹介いたします」
つまり、父が雇っている範囲外の、同じ風魔一族か?
ふと、駿府までの道すがら追われたことを思い出した。
あの時の手練れたちはどうしているのだろう。まだ勝千代を狙っているのだろうか。
「それはどういうことですか! 納得いきません!」
隣室で轟介が大声をあげた。
あらかじめ申し付けていた通り、轟介のこの屋敷への出入り禁止を告げたのだろう。
妥当な処分だと思うよ。日向屋の出入りを禁じたわけではなく、あくまでも警護の一環として、よくない噂をばらまくことを咎めただけだ。
知らせを受けた日向屋が飛んでくることが予想されるが、申し開きは轟介からではなく、彼から聞くほうがまともな話し合いになるだろう。
ふと、隙間越しに副番頭と目が合った。
何の感情も含まれていない、ただの視線だった。
「……ふーん」
勝千代は、軽く顎をさすった。
ひょっとして、という思いが頭の片隅から湧いて出る。
「わざわざ堺で噂になっていることを教えてくれるなんて、親切な忍びだね」
「ええ、お察しの通りかと存じます」
やはりそうか。
あの男、福島家に売り込みに来たのだ。
何か情報を持っているのか、父についたほうが利があると踏んだか。
顔をさらしてまでこの席に同席したのは、つなぎを待っているという意味だろう。
こうなってくると、勝千代を悪く言う噂を出してきたのも、意図的なものと思わざるを得ない。
「……よっぽど大きな話のようだ」
弥太郎はほんのわずかに眦を垂らして笑み、すっと勝千代から離れた。
どうやら、彼の満足のいく返答ができたようだった。