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冬嵐記  作者: 槐
第七章

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186/308

31-3

 弥太郎曰く、事件が起こる寸前まで、特に変わったことはなかったという。

 たまたま、昨日から街に滞在していた日向屋の番頭らと行きかい、そこで唐突に田所が暴行に及んだとのこと。

 原因は何かと問うと、「噂」だという。

 どうやら堺あたりでは、福島家のぽっと出の養子が我儘で商人を罪に落としたという噂が蔓延していて、そのことを面白おかしく周囲に吹聴していた若い男に、田所が容赦なく殴り掛かったのだそうだ。


 まず刀を抜いていない事。

 歩けないほどの怪我ではない事。

 そりゃあ主家を貶されれば怒るよな、という事。

 上記の三つの理由から、周囲の風潮は田所に味方をしていて、むしろ騒ぎ立てている日向屋の番頭のほうが白い目で見られているらしい。


 前提問題として知っておいてほしいのが、勝千代は身分の貴賤に対して特に思うところはないという事だ。

 もちろん寒月様や御屋形様のような上位者へは礼を尽くすし、逢坂老のような年長者へもそれなりに敬意を払っている。

 逆に弥太郎や楓のような忍びや、サンカ衆のような山賊まがいの者たちにも、隔意は特にない。

 農民や職人、商人に対しても同様に、その身分というよりも、人間性を見て相手をするようにしている。

 つまりどういうことかというと、いくら相手の身分が低くても、それだけを理由に扱いを決めたりしない、ということだ。

 噂云々のことより、むしろ、弱い立場の人間が直情的な配下の者に乱暴されたという事実の方が気になっていた。

 弥太郎情報を信じないわけではないが、彼だとどうしてもこちら贔屓になってしまう。


 状況を知ったからには放置しておくのもどうかと思い、お互いの言い分を聞くべく一か所に呼ぶことにした。

 皆に渋られたので、勝千代は表に出ないという約束の上だ。

 聞き取りは主に逢坂老が行う事になり、商人でも出入りが許されている勝手方の一室に、田所と当時行動を共にしていたその配下の者、問題の男らを招集した。


 呼んだ時刻より少し早く、先にやってきたのは田所たちだ。

 部屋を見回し、すぐに隣室にいる勝千代の存在に気づいて、丁寧なんだか不遜なんだかわからない仕草で頭を下げる。

 すでに血まみれの装束から濃い緑の肩衣袴に着替えているが、どこかゆるく着崩れていて、連れている連中のほうがしゃきっと身なりも整い逆に上役のように見えた。

 田所はぐるりと部屋を見回し、まだ問題の相手が来ていない事に気づいて、ぼりぼりと首の後ろを掻いた。

 まあね。こういう時は普通約束の時間よりも早く、下位者のほうが来ているものだ。

 その時点で、周囲の空気は大きく田所の方に傾いていたが、いかんせん、本人の表情はぼんやりしていて、怒っているのか呆れているのか読み取りにくい。

 ちなみに勝千代のほうが先に到着していたのは、時間よりも大幅に早く来ていたからで、できれば先に商人の男の怪我の具合や人となりを盗み見ようとしたのだが、結局その登場は一番最後だった。


 幸いなことに、約束の時刻に遅れるというようなことはなかった。

 この時代には時計というものがないので、人々はかなりアバウトに時間をとらえて動く。

 それを考慮しても「遅れていない」のだから、文句を言うことはできない。

 だが、礼儀にもとることは確かだ。

 腫れあがった顔をさらした若い商人も、すでにその場にいた面々を見て「しまった」という表情になった。

 即座に頬を押さえいかにも重傷という態度をしてみせたから、遅くなった自覚はあるのだろう。

 気の毒なのは、ともに入室してきた武士たちのほうだ。

 当事者の田所だけではなく、裁定者の逢坂老まですでに先にいたのだから、焦るのもわかる。

 見覚えのない男たちだった。

 商人を連れてくる役目の者なのかと思っていたが違って、狼藉者と対面することを恐れた商人が、自分側の立会人として同席を希望したらしい。


 部屋の真ん中に田所と、それに向き合って座るのは堺商人の二人連れだ。

 田所の背後には、険しい表情の二人の武士。同じように、商人たちの背後にも、更にもっとこわばった面持ちの武士が四人。 

 田所と商人では田所の方が身分が高いので、最上座の逢坂老から向かって左手に座っていた。

 勝千代が隠れているのは、その背後の部屋だ。少しだけ開いた襖の隙間から、それらの様子をのぞき見している。

 部屋の中央に座っている若い商人は、むっつりと唇を引き結び、その状態でよく前が見えるな、と思う程に顔中を腫れあがらせていた。


 日向屋の一番若い番頭だそうで、名前は轟介。

 年のころは二十代前半。名は体を表すというが、商人というには武骨な見た目で、強面な顔立ちとその表情が、勝千代の中の商人というカテゴリーからは外れて見える。

 一つ安心したのが、想像以上に元気そうだという事だ。

 殴られたとはいえ、あの返り血の量からいって相当な怪我を想像していたのだが、確かに顔は腫らしているが、足元に揺らぎはなく、意識が朧な様子もない。

 ちなみにあの血が何だったかというと、派手に噴いた鼻血らしい。


「何もおかしなことは言うておりませんよ!」

 逢坂老を含め、福島家の武骨な顔ぶれを前に、不貞腐れた表情でそう言える肝の据わりに感心する。

「それなのに、あのお方がいきなり殴りかかってきて」

 隣室からこっそりと聞いた轟介の言い分は、あまり感心できないものだった。

 たかが噂、たかが世間話。これほどの制裁を食らう程のものではなかったと。

 たとえそれが真実だとしても、商人階級である轟介が面と向かって武家に反骨精神を見せても良いことがあるわけがなく、身分的にも商人としても褒められた態度ではない。

 事を収めるためにも、少し口は過ぎたかもしれないと謝意を伝えていれば、今ほど周囲の反感を買う事はなかっただろうに。


 勝千代といえば、こんな若者をよく番頭として外に出したなと、逆に日向屋に感心していた。

 聞けば、息子がいない日向屋の後継ぎとして、他の大店から引き抜かれたらしい。

 大恩人である寒月様のもとに、ここまで未熟な後継ぎを向かわせるなど正気だろうか。

 客商売ならば最小限、周囲の者の感情の機微を読み取ることができるべきだと思うのだが。

 勝千代の側付きや護衛たちだけではない、一見平静そうな顔をしている逢坂老でさえ、轟介の話が進んでいくにしたがって、怒りで顔色を赤黒く染めていっている。

 公平を期すためと、轟介本人に連れて来られた奴らまで、難しい顔つきになっていた。

 ご丁寧にも興津のところと、朝比奈の小物頭クラスの武士を立会人として選んでいるあたり、多少は頭を使ったのだろうが……あまり意味はなかったな。


 それほど時間もかからず、田所が鼻血を噴かせた理由がわかってきた。

 いるよね、こういう無意味に自身の説を正しいと信じ込んでいる奴。

 しかも多弁で、余計なことまで喋りまくってくれるから、建前ではなく本心でこのことをどう思っているのか透けて見える。

 本人に悪気があるかと問われれば、多少はあるだろうが、たいして害はないと言ってもいいだろう。

 この若い無鉄砲さでどこまで行けるのか、遠くでやっている分には黙って見ていたい気もするが、残念ながら勝千代は当事者なので放置はできない。


 轟介の多弁に耳を傾けるべき要素はほとんどなく、長く聞くまでもなくすぐにおなかがいっぱいになってしまった。

 わざわざ勝千代が出ずとも、さっくり出入り禁止にするだけで良さそうだ。

 日向屋とは長く付き合いたいと思っていただけに、残念だな。

 そんな事を考えながら、目立たないようにその場を去ろうと腰を浮かせた勝千代に、弥太郎がすっと顔を近づけてくる。

「あの副番頭の顔に見覚えがあります」

 耳元で、他の誰にも聞き取れないだろう音量で囁かれた。

 見覚え? 弥太郎が言うとひどく怪しく聞こえるが、それはどこで見たかにもよる。

「かつて、土方で商いをしていた者で間違いないかと」

 続く言葉の意味が頭にしみこんできてから、思わずまじまじと弥太郎の顔を見返してしまった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 色々これからの展開が気になる人物でした。 番頭と言えば店を代表する立場ですがいくら後継者含みとはいえ現代と違って十代から活躍する時代でも若い存在(引き抜きという言葉から他の裕福な商家の子供な…
[一言] 自分の奥方の仇の一味を態々雇うなんて、日向屋さんもヤキがまわりましたねぇ。 そしてエノキはファインプレイ。思わぬところで面白いのが釣れました。
[一言] 轟介さんから僅かにですが早田の魂を感じますw
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