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慌てた叔父が、供回り最小限で出立したのはその日のうちだ。
急いでいたので挨拶もそこそこ、相談したいことが他にもあったのに、言う間もなかった。
叔父があっという間にいなくなってしまったのは、寒月様を土方にお迎えする準備のためだ。
取り残された江坂の兵は誰が面倒見るんでしょうか。
なんなら、福島の兵総数が二百を超えたんですが。
当然ながら、寒月様の御屋敷の周辺でさばききれる数ではない。
特に指示もなく置いていかれた組頭が、所在無げな顔をして勝千代を頼ってきた。
名を聞くと田所だという。どこかで聞いた名前だ。
……ああ、エノキ男か。叔父の側近のちょっと変わった奴だ。
思い出したのは、独特の縦長の体形からで、聞くところによると兄弟だという。
「叔父上を追いかければいいのではないか?」
「後は任せたと言われたのですが……何を任せられたのか確かめる前に出立されてしまって」
おそらくは、勝千代が駿府へ引き上げる際の護衛として残したのだろうが、他人が自身と同じ方向性で物事を考えてくれると思わないでほしい。
田所弟は困り切った様子で頭を下げ、この先どうすればいいのかということ以前に、滞在するのであればその宿泊先、連れている兵の食い扶持をどうしようかと相談してきたのだ。
勝千代はこめかみに指をあて、ぐりぐりと揉んだ。
「……逢坂」
「はっ」
「すまないが面倒を見てやってくれ。費えについては後から相談しよう」
勝千代にだって、その手のことはよくわからない。
こういう場合に頼りになるのが経験豊富な逢坂老で、苦笑いとともに任されてくれて助かった。
「ところで田所」
「はあ」
白いエノキではなく、日焼けしてこげ茶エノキな田所弟は、見た感じ兄のようなサイコパス風なところはなく、のんびりした気質に見える。
返答も独特のゆっくりさで、気やすい近所の兄ちゃんのような雰囲気だ。
あくまでも、容姿だけを見れば……だが。
「……どうして着物に血がついているのか聞いてもいいか?」
「はあ」
田所はゆっくりと瞬きをして、困惑したように首の後ろをボリボリと掻いた。
その薄青の袖と前身ごろの半分ほどにかけて、べったりと赤い染みが飛び散っている。
やはりあの兄の弟だと言うべきか。着物が血で汚れた事を気にする風はない。
「口さがない輩がおりまして……ちょーっと躾を」
「躾?」
勝千代は小さく眉間にしわを寄せた
不平不満や心無い噂をする者はどこにでもいる。例えば勝千代を見て「鬼子」と囁くとか、奈津へ非難の目を向けるとか。
だがここは寒月様の御屋敷。喧嘩をするなどとんでもないし、そもそも血の臭いをさせて屋敷に上がるのも問題外だ。
「まずは着替えて来い。それまでにどうすればよいか考えておく」
「いやぁ、助かります。ありがとうございます」
田所がほっとした顔をして退出するのを待って、もう一度こめかみを揉んだ。
「そういえば、ここにきている連中の掛かりはどうなっている?」
「もちろん各家が負担します」
当たり前のように逢坂老はそう答え、他の者たちもそのことに異論はないようだ。
勝千代は、ますますため息をつきたい気分を飲み込んだ。
「そういうのは福島家に回せ」
「とんでもない。こういう時のために、我らは土地を拝領し、兵を磨いております」
「腰兵糧では賄えないぶんはこちらで持つべきだろう」
特に逢坂家。形だけとはいえ領地を勝千代に献上しているから、苦しいのではないか。
二百人が旅行に行くことを考えてみる。
例えば食事込み一泊二千円と安めに見積もっても、一日だけで四十万だ。
すでに今日まででもかなりの日数が経過しているし、この先も滞在し続けるのなら、相当掛かると考えるべきだろう。
特に今は、朝比奈家が兵糧をかき集めていたから、かなり物価が上がっているのではないか。
「日向屋の番頭が来ているらしいな。顔を出すようにいっておけ」
「……お会いになるので?」
「何か問題があるのか?」
兵糧をまとめて購入すれば少しは安くなるかもしれない。
そんな皮算用もないではなかったが、尋ねたいことも幾つかあった。
そうでなくとも、商人とつなぎを取っておくのは悪い事ではない……そう思い呼ぼうとしたのだが、たとえば護衛の面などでまずかっただろうか。
ちらちらと、側付きや護衛らが視線を交わしあっている。
何か言いにくい事でもあるのだろうか。お子様には聞かせられない事情とか。
こういう時に忖度しない谷に目を向けると、あっさりと肩をすくめられた。
「今は無理じゃないですか」
なんでだよ。
「田所に喧嘩売って無傷なわけないですよ」
勝千代は、とっさに何を言われたのか把握するのが遅れ、次いでどうしたものかと眉間を指でつまんだ。
茶エノキの返り血の相手は、日向屋の番頭だったらしい。
武士が商人と揉めて、物理的に負けるようなことはないだろうが、相手は堺商人だ。
特に非戦闘員が相手となると、非難の目を向けられかねない。
田所はまったく気にしなさそうだが、勝千代は違う。
謝罪するべきだろうか、いや……
立場的に頭を下げるのを厭うたわけではない。
大抵の喧嘩には理由があるもので、状況だけで判断するべきではないと知っていたからだ。
こんなところで、長年思春期のやんちゃどもを相手に悪戦苦闘した経験が役に立つとは思わなかった。
田所はもちろん、日向屋の番頭からも話を聞くべきだろう。
その前に弥太郎だな。
あの男なら、事の次第を知っているに違いなかった。




