30-6
奈津を連れた一朗太少年が屋敷を離れたのは、勝千代が屋敷を訪れてから三日後だった。
大勢の人間がいると奈津がパニックに陥るので、見送りはごく少数。寒月様も勝千代も供を減らし、近づきすぎないようにして別れの挨拶をした。
久しぶりに見る奈津は、以前よりもずいぶんとやつれていた。
子供らしいふくよかさもなければ、無邪気な笑みもない。
勝千代の事は一応認識しているようだが、視線すら合わなかった。
万事に抱きかかえられ、それだけがすがるものと言いたげに、そのぶ厚い胸に顔を伏せている。
「それでは、お世話になりました」
「あまりひどいようなら相談しに来たらええ。まだしばらくはここにおるし、次の行く先はお勝が知っとる」
「駿府で困ったことがあったら、福島屋敷を頼ってください」
寒月様と勝千代の言葉に、深刻そうな顔をしていた一朗太少年の表情がわずかに緩む。
「はい。重ね重ねお世話になりました。……護衛の事も」
万事は正確には福島家の配下ではないが、奈津が気を許している数少ない人間のひとりとして、しばらく岡部家と行動を共にするようにと言ってある。
もちろん、この男がサンカ衆だという事は伝えていないし、万事にも黙っておけと指示していた。
奈津へ向けて刺客がくるかもしれないので、そのための護衛にいくらか兵もつけた。
回復の兆しの薄い少女を連れ出すのは気がかりだったが、一朗太少年の駿府行きをこれ以上遅らせるわけにもいかず、かといってやんごとなき公家のお方にずっと預けておくわけにもいかず。
一朗太少年と下村の選択は間違ったものではない。
だが、敵が志乃の口を塞ごうとした理由がまだはっきりとわかっておらず、奈津もまだ狙われるかもしれないのに、よりにもよって駿府へ連れて行くのは危険だというのは確かだった。
勝千代は、表だった護衛とは別に、影供を複数つけることにした。
弥太郎の配下の者を何名か、表の護衛と相性の良さそうな者を選んだ。
他家のお嬢さんにそれほど大勢張り付かせるわけにもいかないので、連携の取れそうな組み合わせにした。やはり、忍びを厭う傾向の者は多いのだ。
「行ってしまいましたねぇ」
勝千代が小さくなった一行の背中を見てしみじみ言うと、屋敷に戻ろうと踵を返した寒月様が、呆れたような顔をした。
「なんや、気になるならここに居るうちに話せばよかったやろうに」
「遠めに顔を見るだけで怖がられては、近づけません」
「聞きたいことでもあったのか?」
「おそらくですが、奈津殿がはっきりと思い出せるような事ではないのです」
連れだって歩きながら、高い位置にある寒月様の顔を見上げる。
「影供としてつけた女中には懐いているようですから、時間をかけて少しづつ聞き出すようにと命じてあります」
もちろん、つけた女中が忍びだとまでは伝えていないが、一朗太殿には申告済みだ。
「駿府なぁ」
寒月様は随分と今川に不信感を抱いているようで、はじめは奈津を連れて行くのを反対していた。
「美しい街ですよ。お嫌いですか?」
「怖いもんが住んどるからな」
怖いもの? 政敵の誰かがいるのだろうか。
公家にも派閥はあるだろうし、寒月様のような気質の方を厭う者もいそうだ。
「御前がそうおっしゃるのであれば相当ですね」
「怖いというのには語弊があるな、あやつらは鬱陶しい」
公家が隠棲地に駿河を選ぶことが多いのは、今川家との縁が深いからだと聞いたことがある。
寒月様が遠江を住まいに選び、こんなことになってもなお駿府に行きたがらない理由がそのあたりにあるのだとすれば、相当に根深い隔意だと言える。
そこまで考えたところで、弥太郎の言葉を思い出した。
狙われているのはこの方ではない。
奈津をここから離すことに同意したのも、連中の狙いがどこにあるのか明確にするためでもあった。
連中がなおもこの屋敷を探るようであれば、その目標が勝千代である可能性が高い。
「岡部の嫡男とだいぶん仲良ぅなったようやな」
なに、その祖父が幼稚園での交友関係を聞きたいような言い方。
噴き出しそうになって、扇子の先端で口元を押さえて堪えた。
「気になりますか?」
「あの子のことはよう知らんが、奈津の父親がそなたを殺そうとしたことは知っとる」
表情を隠せずにギョッとしたのは、側付きの三浦と複数の護衛たちだ。
「子供を人質にとられたからですよ」
「そのへんもなぁ」
寒月様も扇子で口元を隠し、声を押さえた。
「……岡部の後釜に誰が座るか知っとるか?」
後釜? 今川軍内での岡部殿の地位の事だろうか。今川館での立場の事だろうか。あるいは、雪崩で倒壊したあの城の事?
ふと、万事が持ってきた薬篭の事を思い出した。
福島家の家紋が入ったものだ。
まさか兵庫介叔父か? いや、あの男はそれほどの兵力を持っていない。軍閥のひとつでもある岡部家の代役は難しいはずだ。
「何か御存知なのですか?」
知らない事をいくら考えてもわかるはずがなく、素直に尋ねてみる。
寒月様はそれ以上口を開こうとはせず、意味ありげにこちらを見てから屋敷に戻っていった。
本願寺派の僧侶を疑っていた慧眼といい、この方のお考えは大きく本筋から外れない気がする。
あれだけのことをされても、武家の内情に深くかかわろうとはせず、抗議以外の動きをしようとしない姿勢を思えば、破格の示唆だった。
見るべき方向性がまたひとつ増えてしまったが、調べてみる価値はあるだろう。
明日来るという叔父の顔を思い浮かべながら、この事を話せばまた眉間の皺が深くなるのだろうと、ため息を飲み込みながら思った。




