29-8
甲斐に戻る早駆けの一隊は、日も昇らぬうちに出立した。
到着は四日後の夕刻の予定だそうだ。
見送りはしなかった。
そもそも朝比奈殿が戻っていることすら公にはしていないので当然だ。
見送った叔父と興津には、責めるようにじろじろと見られた。
なんだよ。二日連続の早起きはつらいんだよ!
いや、見送りぐらいすればよかったと思わなくはないけれど。
あの短時間で、朝比奈殿の中で何が起こったのか定かではない。
だが、今にも死んでしまいそうに見えた若き当主の表情は、最後に見たときには、元の状態に近くまで戻っていたように見えた。
早駆けで甲斐に引き返すことに同意し、三河方面に指示をだすほどには自力でものを考えることができるようになっていたのだ。
だがしかし、折れた人間の心はそれほど早く元には戻らない。
表面上はどうであれ、今なお朝比奈殿の内側には強い死への願望があるだろう。
夕べの別れの挨拶の際、いつ死なせてくれるのだと言いたげに見られたが、勝千代はただ「お気をつけて」と言葉を返しただけだ。
朝比奈殿の命は、もはや彼自身の手の内にはない。
死にたいのであれば、その命を無駄撃ちするのではなく、朝比奈一門のために、今川のために使えと言ってある。
息を吸って吐くのも、許しがあるからできるのだと思えば、安易にその命を捨てることはないだろう。
そうとも、死に場所をあげるとは言ったが、すぐに死なせてやるとは言っていない。
詐欺だと思うか?
苦情があるならいくらでも聞くが、それは本人からしか受け付けない。
いつか苦情が言えるほどに心が回復してきたら、一晩中だって文句を聞いてやろう。
その日が来るのが楽しみだ。
「勝千代殿」
額に青筋を浮かべた叔父に、低音で名前を呼ばれる。
叔父の苦情は一秒だって聞きたくないな、と思いながら、素直に「はい」と返事をする。
怒られるようなことは何もしていないはず、と思いながら首を傾けると、傍らで興如が苦笑交じりに咳払いした。
「甥御殿に悪さをするつもりは毛頭ございませんよ」
そうだよな、碁を打っていただけだし。
「拙僧も明日には駿府へ戻ります故に、御挨拶に参っただけです」
「挨拶というには長いようですが」
「いやはや! なかなか勝負がつきませんで」
興如の得意な守りの型を教えてくれるというから、最後に碁盤を広げたのだ。
ちょっと……いや、かなり時間が押したかもしれないが。
「膳を囲まれたと聞きました」
「ゴマ豆腐ですよ!」
勝千代は、きらりと目を光らせ、食い気味に言葉をかぶせた。
碁をする傍ら、昨日厨で何を作っていたのかと聞いたのがきっかけだった。
予想通り精進料理らしく、煮物や汁物について話してもらった。
仏門の徒は、自らの口に入るものを自ら作ることも修行の一部らしい。
中でもゴマ豆腐の話になって、葛粉が手に入ったら必ず作るそうで、甘くて美味いと聞けばどんな味か興味がわく。
この時代、ほとんど甘味が存在しない。
いや、正確には存在しないのではなく、砂糖というものがまだほとんど流通しておらず、なかなか口に入らないのだ。
ゴマ豆腐なので、甘いといっても甘味のような甘さではないのだが、それでも、一口食べただけでそのもちもち感に魅了されてしまった。
「……勝千代殿」
叔父の呆れたような声色に、はっと我に返る。
弥太郎に毒見はさせたし、そういう点での不安はないから大丈夫だと思っていたのだが、叔父的には駄目だったらしい。
「すいません」
反射的に謝罪して、しょんぼりと肩を落とす。
「……気に入られたのでしたら、賄い方に作らせましょう」
「あとで作り方と分量などを記してお渡しします」
叔父の疲れたような顔と、興如の含み笑いに、子供っぽい真似をしてしまったと気恥ずかしくなる。
いいや四歳児なのだから、これでいいのか?
「明日の朝出立されるとか」
「はい」
気を取り直した叔父が、興如に声を掛ける。
興如は碁盤から膝をずらして叔父に向き合い、丁寧に会釈をして肯定する。
「事情については御屋形様に先に文で知らせてあります」
それでも、直接会えるかどうかは微妙なところだ。
御屋形様の体調次第だろうが、このことを対処するのが誰かによっては、下手をしたらまた握りつぶされる可能性もなくはない。
もっとも危険視するべきなのは御台様の派閥だろう。
寒月様の御屋敷を夜討ちした件をもみ消すのはすでに無理だが、のらりくらりと時間を稼ぎ、うやむやにしようとするかもしれない。
「……朝比奈殿に非難が集まるでしょうね」
「ええ。それ以上に問題とされるのが、篠山殿です」
この先の展開に嫌なものしか感じないのは、叔父も同様らしい。
勝千代の沈んだ口調に同意して、ちらりと興如へ視線を向ける。
「今もってあのお方が見つからないのは、おそらく逃亡を手助けした者がいるのでしょう」
興如には、少なくとも表立っては、朝比奈殿が戻ってきていたことを知らせていないし、篠山殿とその兄弟はどこかへ逃亡した事になっている。
「引き続きお探ししておりますが、足取りは近隣の街では見つけることができませんでした。三河方面へ逃れた可能性が高いと考えていますが、あるいは伊豆相模の方角に向かわれたやもしれませぬ」
うんうんと頷くふりをして、食わせ者の僧侶の表情を伺う。
興如は沈痛な表情で視線を伏せていたが、ややあって顔を上げ、叔父の方を向いた。
「今川館で、御身内にお心当たりはないかとお伺いしてみましょう。ご心配なさっておられるでしょうから」
実に真摯な表情だ。僧籍にある者として、か弱い女性の行方を気にかけているようにしか見えない。
……だが、騙されないぞ。
神妙な表情の裏で、状況を楽しんでいるのではないか。
いや、むしろこれでいいのかもしれない。
興如の謝罪は、御台様側には喜ばしくない事態だ。
先方がこの責任を朝比奈殿にかぶせようとしても、興如の気遣いはより連中を不利にするだろう。
……お手並み拝見といこうか。
敵に回せば厄介に違いない男だが、遠いところで暴れている分には、面白い見世物になってくれるだろう。




