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こういう目を見たことがある。
ひき逃げで両親を失い、喪主として葬式を上げていた少年が、遅れてやってきて香典を持って行こうとした兄に向けた視線だ。
諦めと、達観。
第三者にはどうしようもない、深い絶望の渦に沈んだ者の目だった。
まじめな気質の朝比奈殿が、自らの正室の行動を止められなかったことを悔いるのはわかっていた。
配下の者の一部が、その命令に従って寒月様を夜討ちし、取り返しがつかない事になってしまったと唇を噛むのも。
絶望し、妻を含め自身をも始末してしまおうと考え、その心はさぞ荒れ狂っているのだろうと想像していた。
だがしかし、目覚めたと知らせを受けて駆けつけ、血の気が失せたその顔の、表情のない目を見た瞬間、誰も言葉を発することが出来ず黙り込んだ。
何もかもを投げ出した者の目だった。
腹を切るというレベルではなく、すでに魂はこの世にないかのような。
朝比奈殿の中では、取り返しがつくような状況ではないのだろう。
死を以て償う? いや違う。何もかもを終わりにするべきだという、無の境地に似た状況だ。
はたしてここから彼を引き上げることが可能だろうか。
一刻も早く前線に戻らなければ、勝手に持ち場を離れた事だけではなく、篠山殿らの失踪とも関連付けられて、罪人の烙印を押されてしまうかもしれない。
だが、心配する者の心情すらも、朝比奈殿にとってはどうでもいい事なのだろう。
とてもではないが、早馬で再び前線に戻り、指揮を執るなど無理なように見える。
「……と、殿」
不意に、棚田が泣きだした。
両手をついた床の上に、涙がぼたぼたと滴り落ちる。
普段の朝比奈殿を知っているわけでもないが、こんな腹心の顔を見ても、何も感じないような目でいる男ではなかったと思う。
壊れてしまったのだ。
誰もが、そう思っただろう。
「すいません、席を外していただいても?」
勝千代は、むせび泣く棚田の声しか聞こえない沈黙を破り、小声で言った。
「少しの間でかまいませんので、誰も近づかないでください」
「いやそれは……」
興津は問題外といった表情だし、叔父もそうだ。
たった四歳児の童子を、精神状態が不安定で何をするかわからない男の近くに置くなど、勝千代でも反対しただろう。
「今の状態では、前線に戻るのは無理です。話をしてみます」
たとえ自暴自棄になったとしても、子供を手に掛けるような男ではない。
小声でそう告げると、半数は納得した表情になったが、棚田や朝比奈殿の乳母ら夫婦は受け入れがたいようだった。
「このままだと、心が死んでしまいますよ」
もう既に、絶望の沼に沈みかけている。
周囲の声すら届かない境地に陥っているなら、引き戻すことが可能だとしても、元どおりになるまでにはかなりの時間が必要だろう。
今の彼にそんな猶予はない。
「……参りましょう」
そう言って、渋る老夫婦の腕を引いたのは逢坂老だ。
「四半刻だけです」
影供は外させない、と言外に告げる叔父に、勝千代は小さく首を上下させる。
朝比奈殿は、狭い部屋に子供と二人きりになっても、その顔に何の感情も浮かべず、ただ自身の手元を見ていた。
勝千代が、人間の絶望というものを初めて目の当たりにしたのは、二十代半ばほどのまだ経験の浅い教師だった頃だ。
カウンセラーでも心療内科医でもないので、どうすればいいかなどわからず、結局は彼が自力で心を修復するまで見守っているしかなかった。
のちに彼自身から、何もせずにいたことがかえって助けになったと言われた。
同情も、肯定も、彼の兄に対する非難も、何ひとつ口にせずただ側にいただけだった。
大人になったあの子の顔を見ることができたのは、ただの結果論だと今でも思う。
心が完全に折れてしまっていたら、自力でなど立ち直れない。
「生き恥をさらすのはお辛いですか?」
勝千代は静かに問いかけた。
時間は今でさえほぼ残されていなかった。
気持ちを持ち直すまで側にいるどころか、悠長に説得している間すらない。
朝比奈殿に残されているのは、ほぼこの四半刻だけだといってもいい。
叔父と興津殿がこれ以上は無理だと判断すれば、朝比奈殿は切腹あるいは幽閉、最低でも当主の座の交代にはなるだろう。
いや、交代で済めばまだいいが、そうなったときに朝比奈殿がむざむざと生きながらえているとは思えない。
つまり結局は、待ち構えているのは死だけだ。
「恥など感じない方法を教えて差し上げましょう」
そうならないために必要なのは、支柱だった。
彼が再び自力で立てるようになるまでの添え木。
完全に折れて地に伏す前に、がっちがちにギプスで固めてとりあえず立たせ、そののちにゆっくりと修復を待つのだ。
「あなたの命は、今この時からあなたのものではない」
気は進まない。
まるで、無気力な人間を洗脳しているか、メフィストフェレスでも気取っているかのような気分だ。
「勝手に腹に刀を突き立てる権利も、敵にわざと刺されに行く権利もあなたにはない」
説得も同情も通じないと判断しての、残されたカードの片方を選択した。
これが正しいかなど、勝千代にわかるわけがない。
何を馬鹿な事をと、朝比奈殿自身に拒絶されるかもしれない。
むしろそうあってくれと願いながらも、何も映していない彼のその目に、駄目押しで言葉をつづけた。
「あなたに死に場所をあげます」
五十年後にね、という内心のオチは今はもちろん口にはしない。
もう片方のカード……逢坂らにしたように憎悪を煽るのは、強大な武力を有する彼には危険だと判断しての選択だ。
「それまでは」
意図的に、そこで言葉を切った。
その後の言葉を選んでいる間に、無気力だった朝比奈殿の目に光がさしていることに気づいたのだ。
「……死に場所を」
風邪をひいたのか、喉をつぶしたのかという程のガラガラ声だった。
ようやく聞けたその声に、「うわっ」と内心で引いてしまったのは仕方がないだろう。
「死に場所を賜りたく」
いや、五十年後に……
はっきりとそう言いたかったが、言わないでおく理性はあった。
大丈夫か、朝比奈殿。闇落ちが過ぎないか?
ここまで親身に関わりあうような関係性でもなく、ただの知己、多少の恩義のある相手だというだけなのだ。
だが仕方がない。乗り掛かった舟だ。
勝千代は励ますようにニコリと微笑み、寝乱れてなお直毛の髪が落ちる朝比奈殿の腕に手を置いた。
「ええ、わかりました。その前に……あなたの命の使い道を果たしてください」
ただし、オールの漕ぎ手には立候補しない。
沈まないように見守っているから、自力で岸まで漕いで戻ってきてほしい。




