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油断ならない、要注意人物だというのは知っていた。
味方などと思ったことは一度もないし、むしろいつ敵対行動をとってくるかと用心していた。
この人が完全に敵に回れば、かなり大変だろうという想像もついていた。
だが、こうなってしまうと……逆の意味で恐ろしい。
日差しがまだ西に傾く前の昼間。
いつもの大広間。
朝比奈殿はまだ眠り続け、掛川城の重臣たちと、勝千代らが全員揃った前で、禿げ頭が並んで低く下げられている。
キンキラキンの袈裟で視線が滑ってしまうが、それを身にまとっているのは興如と、彼の側にいた同じ僧形の男たちだ。
「この度の我が宗派に籍を置いておりました者の不始末、詫びのしようも御座いません」
興如は、鏡如らを、半日どころか数時間もかからぬうちに罪人に落とした。
いや、もともと罪人として地下牢に捕え、取り調べをしている最中ではあった。
犯した罪状だけではなく、どことどうつながっているのか、そのあたりを重点的に聞き出そうとしていた。
だが、その罪を認めさせる事は難しく、まともな会話をすることさえも難航していた。
それをあっさり。
ごく短時間、牢屋の格子越しに面会を許しただけなのだが、牢番が席を外したわずか四半刻のうちに、人間そのものが入れ替わったのではと疑いたくなるほど、態度が激変してしまったそうだ。
直接見たわけではなく、説明を受けただけなのでいまいちよくわからないのだが、まるくて大福のようだった面相が、一瞬にしてダイエットに成功したかのようにやせ細り、聞いてもいない事までベラベラと話すようになったとか。
何をした。
おそらく脅迫かそれに近いものがあったのだろうと想像はつく。
だが、あまりにも急激な変化に、専門家の弥太郎ですら首をかしげている。
薬でも飲ませたのだろうか。
なにもかも吐き出さざるを得ないほど、恐ろしい目に遭ったのだろうか。
……そこまで勝千代が気にしてやる謂れはないのだが。
「こちら、西三河の松平殿と交わした密書です。隠しておりました」
絶対でっち上げだろう。
牢に捕えると同時に、身辺はしっかり調べてあるので、興如が差し出しているような書簡があれば気づかないわけがないのだ。
勝千代含め、誰もがそう思ったに違いないが、即席に用意されたにしてはいかにもそれらしく、手垢や染みのようなものまでうかがえる書状だった。
興如の手から、叔父の側付きの手に渡り、ようやく叔父の元へ届く。
叔父はちらりと興如を見てから、その書簡に視線を落とし、一読してため息をついた。
開いたままの状態で興津に、次いで棚田に手渡される。
「……っ、これは」
棚田の手の中で、書簡にくしゃりと皺が寄った。
何だ、何が書かれている?
「まことの事でございますか?」
「お武家の事は、拙僧にはわかりませぬ。しかしながら、あの者が世俗のことに介入し、欲を満たそうとしていたことは確か。もはや宗主の裁可も必要ありますまい。我欲に犯され、仏門の徒にあるまじき行いをしてきた者に、もはや我らが宗派の名を名乗る資格もなし」
興如の視線が、最上座に座る勝千代の方を向いた。
目が合って、一瞬。
いたずらっぽくというよりも、いじわるそうにきらりと光った気がした。
とっさに思ったのが、付け入る隙は見せなかったよな? という事だ。
相談と称し、もろもろの願望を口にはしたが、具体的に何かを要請したわけでも、知られるわけにはいかない事を明かしたわけでもない。
興如が察したことがあったとしても、それはあくまでも彼の想像であり、真実ではないと言い張れる。
いやむしろ、明らかに偽装に違いない書簡を出してきた興如の方に、突っ込みどころの弱みが出来てしまったと言ってもいいだろう。
勝千代は、ようやく回ってきた書簡を受け取って、武家のものらしい武骨な、はっきりとした筆跡に目を落とした。
おおよそ予想通り、いついつ頃に砦を攻撃するので、掛川の気を逸らせてほしいという要求と、その対価としてかなりの額を寄進すると書かれている。
どうせ偽装だろうとさっと斜め読みしたのだが、最後まで目を通してふと目をすがめる。
署名の欄には数名の名前がある。
筆頭は牧野。次席は松平だ。
……いやまさかな。本物じゃないよな?
なんで西三河の松平と同列に、東三河の牧野の名前があるんだよ。
「……この密書はどこから? 鏡如らが所持していたのなら、すでに発見されていたと思うのですが」
叔父の質問に、興如は芝居には見えない申し訳なさそうな表情で眉を下げた。
「阿弥陀仏像の内側に隠しがございました」
そういうところ、きちんと調べていなかったのだろうか。
棚田の赤黒い顔を見るに、見逃していたのかもしれない。
叔父が棚田に呆れたような目を向け、興津に至ってはすぐにも叱責したそうな顔をしたが、さすがにこの場では口をつぐむ。
「このような事を言っては何だが、御坊。どう始末をつけるおつもりか。当人の破門ごときでは収まりつきませぬぞ」
「直接今川の御屋形様に御目通りを願い、謝罪させていただきます」
叔父の冷ややかな言葉に、丁寧な仕草で丸い坊主頭が下げられる。
勝千代は再び書簡に目を落とした。
……まあ、ねぇ。
はっきり記されている、『掛川のお方様』という一文。これがあれば、まずは御台様の口を封じることができるだろうし、あわよくば御屋形様からも強く責められずに済むかもしれない。
しかも鏡如は自称「伊勢の血筋」なのだ。
頭ごなしに、本願寺だけに罪をかぶせることはできないだろう。
出来すぎた証拠だ。
お願いをした勝千代でさえ、完全に偽物だと否定しきれないのが恐ろしい。
これをうまく使えば、今川の弱みをつかんだと言っても過言ではないし、味方のふりをしていた西三河の陰謀を明らかにした立役者にもなれる。
ふと、頭を撫でていった節の高い手を思い出す。
勝千代の無理な頼みを聞き入れたようでいて、ふたを開けてみれば、決して彼らの不利になったわけではない。
……うまいな。
非常に立ち回りがうまい。
勝千代はますます警戒心を深め、老僧の動きから目を離さないでおこうと思った。




